『沖で待つ』

saikaku2006-03-21

死者と話す、対面する、そのような場面設定、何か、興味があると思う、それは何もなくなった部屋で、その死者と会話するということ自体が、また、そのようなことができるということが、その、明らかな他者ということではなくて、事故のうちの他者性という、そのようなところでの対話、そんなことになっている、そのことが、また、自己、それが深化していくところの契機にもなっていく、そのようなことだと思う、表面的には自問自答している、それだけのことにしか見えなくても、内部においては、深耕していく、そのような作業が行われている、そのようなことが絶対必要なんだと思う、人間が成長していくこと、子供から成長していくこと、要は、人間だけのことではなくて、動物ということにおいても、或いは、多分、植物においても、その、水だけ、或いは、少しの養分を与えておけば、草木も生長するということではなくて、そのようなことではなくて、その、子供にしても、食事を与えておく、或いは、遊ぶためのものを与えておくとか、そんなことではなくて、その、関わっていくこと、木に対しても、関心を持っている、或いは、対話をしていくという、そのような気遣いということが、そんなところのことが必要なこと、絶対必要なことなんだと思う、その、相手が、ただ、成長していけばいい、大きくなっていけばいいということではなくて、そう、そのようなことではなくて、自分にとっても、成長していくというか、深化していくところのこと、同時にそのようなことが起こっている、そのようなことがなければ、その、関わっていくということ、一方的に与えていくということではなくて、相互作用としてのこと、そんなところの遣り取り、それができるかどうかなのだと思う、庭を造っていく、その、ただ、自分の意思として、そのことを表現していく、そのようなことでもなくて、雑草がこれからも生えてくる、多く生えてくるのだろうと思う、或いは、何処からか、何か分からない芽も出て来る、そのようなこと、どのような潜在的なものを抱えているのか、そのことを観ていく、そう、そのようなこと、新しいものを移植していくということがあるとしても、その、庭本来、或いは、その土の下に隠されているところのこと、そのことが、それも、その庭独自の可能性として、そう、そのようなことを観ていくということ、自分だけの方向性、そのことで駆けていくということ、そうではなくて、相手からのこと、そのこと、その遣り取り、そんなことによって、どのようなことができるのか、どのような関わり方ができるのか、そんなことが決まっていくのではないかという、そんな気がする、そう、同じようなこととして、人と関わっていくことにおいても、同じような感覚、それでいいのではないかという、そう、そのようなことを思う。