「ブッダ 最後の旅」

saikaku2009-10-21

「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころにして、他のものをよりどころとせずにあれ」
 
結局ブッダの教えとは、人間としての苦しみというのは、人に或はモノに執著していくことにある。自分の存在を認めて貰うために、地位や肩書きに拘っていく、広い人脈を築いていく、サークル活動に精を出していく、珍奇な物を収集していくなど、その存在を確認できるものに依存していく。その、対象が在って自分が在るという生き方が、不安定さを生み苦しみを与えていく。でも、誕生からの長い年月、親に依存していかなければならない習性からすれば、そのことはどうしようもないことなのだと思う。他者にまた他のモノに依存していくということではなくて、「自らを島とし」ていくように、自己に立脚していくことが、その依存性から離れていくことになるのだろう。それはまた、自己を識るという意味もある。多分、依存していた時期が長ければ長いほど、そこから離れていくことも長い時間の掛かることなのだ。そして、少しずつでもその方向へ進んでいく。

「幸福写真」(荒木経惟)

saikaku2009-10-20

「内裏造らるるにも、必ず作り果てぬ所を残すなり」

多く残されている、昔のノートを見る。20代から30代ぐらいものだと思う。その頃からも多くの本を、今に比べればもっと多様なジャンルの本を読んでいたことがわかる。手当たり次第に、何でもかんでもといった具合だった。そしてノートには抜書きをし、少し自分の感想も書き添えていた。でも何かその侭の、生硬な感じの文章だ。そんな文章が所々に残っている。その頃に今の生活の原型が作られていたのだと思う。本を読むそして書いていく、その原型が出来ていた。色でもなく音でもなく影像でもなく、文章を通して自己を表現していくのが自分に合っていると。文から学んでいく、それが合っていると。もう一つ、カウンセリングを学習したことも大きな影響を与えている。自己表現を深めていく。そのような意味があった。そして、今の段階になっている。そう、生活の在り方そのものも進化していくのだと思う。一気に理想的な生活の有り様を求めるのは無理なことなのだ。「徒然草」の文章に押されて、本を読みそして書くことへ専念していく。

「すらすら読める 徒然草」(中野孝次)

saikaku2009-10-19

「吾が生すでに蹉跎なり、諸縁を放下すべき時なり、信をも守らじ、礼儀をも思はじ」

植えてからまだ四五年しかたっていないのに、柿に実がなった。初夏の頃はもっと多くの実が付いていたが、最終的に3個だけが残った。台風18号の暴風雨にも落ちなかった。でも大きくなるにつれて先が尖ってきた。「あぁ!これは渋柿じゃないか!」(>_<) 敢えて渋柿の苗木を買うわけもないし、多分富有柿のではなかったかと思う。騙されたのだろうか。もうそれだけ年数が経ってしまっていれば、勿論レシートなんて残っていないし、何処で買ったのかさえ忘れてしまっている。まだ八年も経ってはいないから、それまでは渋柿ができるのかなぁと慰めたりもしているが、でも、まぁ、仕方が無いなぁ。

「こどものころにみた夢」(角田光代他)

saikaku2009-10-16

「その人の一生を決めるのは、実は便器なんだなぁ。便器を選ぶことが、そのままその人の生き方を選ぶことになる。」

ものを書くとか絵を描くとか、その、表現行動というのは排泄行為に似ている。というか、そのものである。排泄するという夢を見たら、私の場合、表現することが足りていないのだぁと連想する。だからどの便器を選ぶのかというのは、どのような表現方法をとるのかということだから、便器の選択は人生の選択と同義である。自分にフィットした便器を選択していく。まぁ、今は満足している。・・・やはり、そう、生活の二分割法は無理。スッキリとしているけれど、無理。午前午後という時間によって分けるとか、家と職場という場所によって分けるとか、それなりに分かり易いけど、無理。多分、外的条件によって分けるのは、内的状態を無視している。もっと本を読んでいきたいとか、もっとモノを書いていきたいとか、その思いが断ち切られてしまう。内的な欲求を無視している。そして、時間に追われるというのが、自分にどうしても無理を重ねていくところもあるのだと思う。そんなことになっている。本当にシンプルな生活を望むということもあるが、やはり二分割法は無理。・・・だから、結局は、その、内的状態に従っていく。自分の基本的な仕事としては、読むことと書くことしかないから、読みたければ充分に読んでいく。書きたければ充分に書いていく。それでいいと思う。そのような単線的な生き方でよいのではないかと思う。まあ、それだけに専念していくことも出来ないが、その基本軸だけは守っていくということでいい。

「本を書く」(アニー・ディラード)

saikaku2009-10-15

「『あなたがあのお話を書いたの?』・・・『それともタイプしただけ?』」

それほどの違いはないと思う。意識的に書くということもあるのだろうし、無意識的に書いているときもあるのだろうと思う。そう、それほどの違いはない。まだ、自分がそうなっているわけではないが・・・少し前から、こんな言葉遊びを愉しんでいる。結構イメージを喚起することに役立っている・・・「掃除機を掃除する」、これは簡単だ。「洗濯機を洗濯する」、大きな洗濯機がいるなぁ。でも出来ないことは無い。綺麗にはなるとしても、うむ、二度と使い物にはならないだろうが。「冷蔵庫を冷蔵する」、これもできないことはない。でも二重に冷やして何の意味があるのか。「乾燥機を乾燥する」、OK。「アイロンをアイロンする」、プレス機みたいなアイロンがいるなぁ。「ミキサーをミキサーする」、壊れること間違いなし。「シュレッダーをシュレッダーする」、これは無理なんじゃないかなぁ。頑丈なシュレッダーがいる。「クレーンをクレーンする」、これは実際にもやっていることだ。「テレビ(受信機)を受信する」、これも簡単だ。映せばいい。「草刈機を草刈する」、意味が分からない。・・・ってなふうに考えていて、そう、「人間を人間(に)する」、これがいちばん難しいだろう。

「塩一トンの読書」(須賀敦子)

saikaku2009-10-14

「あぁ、もっと本を読まなくちゃ!」と、書評というのでもないが、こういう本を読むと必ず思う。長田弘さんの本でも感じてきた。本当に世には一杯いっぱい本を読んでいる人がいるんだ。自分も多くの本を読んできたつもりでいるが、まだまだ知らない本が多く多くあるんだ。別に追い付くというか競うというか、そんなことでもないが、まだまだ読むの値する多くの本があることを知る。また、今まで読んだ本でも、「あぁ、そんなふうに読んでいくことも出来るのか」と、自分と共に成長していくというか、深化していくというか、そのように感じる本もある。それには、何回も読んでいくということに意味があるのだ。難しいことだ。此処へ来て、生活二分法が可能ではないかと思える。今まで〈本を読む〉ことと〈ノートに書く〉ことを交互に繰り返してきた。その、二分割ということ、極めて単純に、午前中は〈ノートに書く〉+午後は〈本を読む〉。そのように生活を二分割していければスッキリとするのにと、常々思っていた。どうなのだろう。愈愈、可能なことなのではないかと思う。人と競うということではなくて、唯自分だけのこととして、その充実していくためのこととして、そのような生活の在り方を創っていこうと思う。

「ヒトラーとユダヤ人」(大澤武男)

saikaku2009-10-13

ユダヤ人というのは、欧米においてはどのような受け留められ方をしているのだろうか。そのことがずっとわからないままになっている。その宗教に起因するのか、独自の生活習慣や文化を持ち閉塞的な集団を形成していると見做されいる。或は、経済界、金融界や学界においても、その優秀さによって主要な地位を独占していると見做されている。ヒトラー、その意を受けた形での部下の行動によって、ユダヤ人を殲滅させていこうとすることには、今も尚ネオナチという集団が現存しているように、その国民の不満の捌け口として格好の標的にされているところがある。劣等意識の現われなのか。そして、最後までヒトラー自身がユダヤ人に対しての自分の行動の正当性を信じていたことには、想像するに、何か他の国々の権力者からも、その絶滅行動についての暗黙の指示があるということを信じていたのではないかと思う。自分の責任を何とかして逃れるために、他者にそれを転嫁していくことは普通に見られることである。何気ない言葉の中にもそのようなことを感じる。でも、その、ユダヤ人という存在にはもっと深い意味があるのだろうと思う。