『ブッダの 真理のことば 感興のことば』

saikaku2009-10-09

少し前NHK教育番組で、片山恭一森有正について解説を試みていた。解説自身、何を言っているのか理解できなかった。また森有正自身が何を考えていたのかも、全然分からなかった。頑張って、全集の1巻目『バビロンの・・・』を読んでみようとしたが、うむ、ウム、有無・・・何も響いて来ない。頑張って、と意気込むこと自体がもう付いていけないことを意味しているのだ。装丁家TKとの関係からの方が分かり易いのではないかと思ったりもして。まあ、いいのではないかと、・・・諦める。何か、自己の内において、呼応するというか、共鳴するというか、自分自身がその本に参加しているという意識が持てなければ、まあ無理なのだと思う。面白いと感じる、そのところから関わりということが始まっていく。もう一つ思うこと、京都のような碁盤目状の街路があったとして、スタート地点からゴールまで行くとき、唯1回しか曲がらない行き方も出来る。でも、私は、多分、角々で曲がるだろうと思う。何故かといえば、その方が前方に見えている光景がその都度替わるから。同じ景色を見ているよりは、変化に富んでいることの方が面白い。そのようなことも関連していると思う。

『詩を読む若き人々のために』(C.D.ルーイス)

saikaku2009-10-08

些細なことだけど、台風18号の進路予想を見ていて、午前4時ごろだったのか、志摩半島の先まで進んで来ていて、伊勢湾の入り口でキュッと上へ曲がっている予想方向がどうにも不可解で、真っ直ぐに進んでいくのが自然だろうと思っていた。でも実際の進路は、本当に「目」を持っているかのように、伊勢湾への入り口が此処とばかりに90度曲がっていた。そう、予想は当たっていたんだと。予報士を改めて尊敬する。よく見れば、台風の進路というのは滑らかに真っ直ぐ進んでいくものではなくて、角角というか結構階段状に進んでいくものだと認識を新たにした。何が関係しているのだろう。地形なんだろうか。
「詩というものが何の役に立つのか」 同じことが他にも言える。「数学の勉強が何の役に立つのか?計算ぐらいは役に立つかもしれないが・・・」 「何の役に立つのか」、役立たなければいけないのかと、実用的なことでなければいけないのかと。まぁ、そんな考え方もあるのだろう。でも、詩にしても、数学にしても、自己を表現していくこと、これが大事なことなのだ。言葉を手段とするのか、数式を武器にするのか、或は、絵の具、墨、石、動作、・・・もろもろの手段がある。どの道を進んでいくとしても、如何に自己を表現するのかということであって、実用段階のことでは無いのだと思う。これは結果としてのことなのだろう。次元が異なっている。自己が関与することでもない。

『虫類図譜』(辻まこと)

saikaku2009-10-07

発刊当時は、多分話題になった本なのだろうと思う。内容的には、吃驚仰天!というか、度肝を抜かれるというか、こういう本も在り得るのだろうかという、そう、当時においては新境地を開いた本だったのだろう。期待を持って見てみたが、どうなのだろう。隔世の感。今となっては、その中のほとんどの虫が死滅してしまっているのではないか、或は何処かでひっそりと暮らしているのか。もうとても蟲惑的は虫類ではなくなってしまっている。思うに、人間というもの、一つ言葉に対してへの魅力を感じて行動しているところが多いのではないかと思う。そう、まだ「東京オリンピック」という言葉が生きていたんだ。もう死語だと思っていたのが、まだまだ魅力を感じている懐古的な人たちが結構もいるんだなぁ。でも、もうこれで終わったのかと。でもないか。逆に、まだまだ一つの言葉に拘って生きていく人たちもいるのだろう。まぁ、いいか。

『老いと向き合う介護』(冨田順子)

saikaku2009-10-05

家政婦というイメージがあるのか、ヘルパーという言葉はどうにも軽過ぎる気がする。介護というのは、身体介護や生活介助を通して、今までの人生に纏まりをつけていくということである。「影」として今までに生きられなかったところも含めて、人生を統合していくことだと思う。そう、本当は崇高な内容を持っているのだ。唯、生活習慣を維持していくとか、自立を促していくとか、それだけのことでは無い。人生の最終段階として、その哲学的或は心理的なことにおいて最終結論を出していくこと、そのことこそ支援していく目標なのだと思う。そうなのだと、だから、helper は止めて terminator にしようと、日本語で言えば「トリ」なのだ。

家政婦というイメージがあるのか、ヘルパーという言葉はどうにも軽過ぎる気がする。介護というのは、身体介護や生活介助を通して、今までの人生に纏まりをつけていくということである。「影」として今までに生きられなかったところも含めて、人生を統合していくことだと思う。そう、本当は崇高な内容を持っているのだ。唯、生活習慣を維持していくとか、自立を促していくとか、それだけのことでは無い。人生の最終段階として、その哲学的或は心理的なことにおいて最終結論を出していくこと、そのことこそ支援していく目標なのだと思う。そうなのだと、だから、helper は止めて terminator にしようと、日本語で言えば「トリ」なのだ。

『老人力』3

saikaku2009-10-02

老人力ということは、結局、自分のできないことはできないこととして無理はしないということ。できるところのことだけ、好きなことだけ、続けて行けることだけ、そのようなことだけを行っていくということなのだろうと思う。若いときは、その有り余るエネルギーに任せて、また自分の能力を過信しているところもあって、何でもかんでも遣ってみようというところがあった。『何でも見てやろう』という本もあった。でも、老人力というのは、自分の限界を識ることから始まり、自分の能力もそんなに大したものではなくて、まあぼちぼちのものだと気づいていく。そして、これだけということに集中していく。そんなことなのだと思う。却って、そのことの方がそのものに深く這入っていけるというか、より深い自分を識るということにもなっていくのだと思う。まあ、ゆっくりと自分に合ったものだけに自分の力を傾注していけばいいのだと思う。そして気が楽になる。毎日が楽しくなっていくだろう。

『老人力』?

saikaku2009-10-01

この本を読んでいて、「介護の基本方針に利用者の今までの生活習慣を大事にしていく」ということがあるけれど、それって本当に大事なことなのかなぁと思う。自分の心身機能全体を自我と自己に分けて考えれば、生活習慣というのは、自我が自分の能力に見合って構築したマニュアルである。当然歳をとれば心身機能は衰えていく。土台であったものが崩れていく。記憶力も薄れていく。でもそのことはマイナスなことなのではなくて、自分自身がその全体性として統合されていく過程である。必要でないものは自然に忘れられていく。そのとき、今までの生活習慣に拘り続けていくというのは、どうしても自分に無理を課していくことではないかと思う。その、老人期としての統合過程に反するのではないかと思う。今までの生活習慣を維持していくのではなくて、老人期に相応しい、その時々の自分に相応しい習慣を見出していくことの方が大事なことなのではないかと思う。そう、どうなのだろうかと。

『老人力』(赤瀬川源平)

saikaku2009-09-30

前回の本にしても、なんとか最後まで読んでみようと思う。が、でも無理。面白くない。面白くないのに、屹度何かいいことが書いてあるのだろうという期待を持って読み進んでいく。が、でも無理。面白くなければ、どうにもならない。自然と放棄してしまう。若いときには、「この本は必読書なのだ」という意識があれば、その本を何とか読破したいと思っていた。内容がテンで分からなくても、まあ、字面を無意味に眺めながら、何とか最後のページまで辿り着いていた。何にも残ってはいない。でも、今はそれも無理。この無理をしているときに限って、酒を呑みたいという気持ちが擡げてくる。もうこのような無理はしないでおこう。するだけでも無駄なのだ。自分にとって面白いのか面白くないのか、それによって判断していこう。そう、このことは本だけのことでは無い。歳をとれば物忘れが酷くなる。それは、見方を換えれば、余計なもの、差し詰め必要でないものは、記憶から排除しても影響は無い。つまり、何か、頭脳の中で、知識の統合ということが為されているのではないかと思う。面白くないと感じる本、それは、今の自分のその全体性にとっては組み込む必要の無いこと、そう意味の無いもの、そのようなことなのだと思う。もう残念がることも止めていく。老人力とは、その、自分を自己まで含めて統合していこうとする、そのような方向性を働きを持っている。知識を水平方向へ拡大していくということよりも、垂直方向へ深化していくことなのだと思う。この本は、そんな勇気を与えてくれる本だ。そして、この本は、最後まで読めそうだ。