「『ゆっくり』の叛乱」(河野秀忠)

saikaku2009-09-29

ゆっくりを登っていくというペースは、この夏の富士登山のときに実得した。8合目の山小屋から頂上まで普通2時間掛かるという登山道、大勢な人々の中を、ゆっくりゆっくり、半歩以下、或は爪先に踵が接するぐらいの歩幅で、更にそれ以下で、ゆっくりゆっくりを心に念じながら登っていった。その結果、頂上で御来光は見えなかったが、1時間半ほどで辿り着いた。どうしてそうだったのだろうと不思議に思った。そのことが自分にとっては本当に驚異的なことだった。コペルニクス的転回にも匹敵する。兎と亀ではないが、ゆっくりと行くことの方が「速い!」という、逆説的なことを会得できた。スローライフともいうが、肝心なところは、自己のペースに合わせていくこと。文章を手書きするときにも、一字一字、或は、一画一画まで、得心をしながら書き進めていくということ。そのような姿勢が、結局は速く進めていくことができる、また遠くまで往けることになる。本当に逆説的なことだ。

『人間、この非人間的なもの』(なだいなだ)

saikaku2009-09-28

1年ぶりに再開する。特別な意味は無い。また始めたくなっただけのこと。この本の発行は30数年ほど前。まだ社会主義とか革命という言葉が命脈を保っていた時代だった。理想として信じられていた。「人間は、人間的である」という一文が当たり前ではなくて、そこにおける「人間」・「人間的」という2つの「人間」という言葉の意味が大きく変化していることに気づく。「人間」という曖昧模糊さが、「人間的」と言われたときに、レンズの絞りをキュッと縮めるような、理想的な意味に急変するのを感じる。そして、「人間は、非人間的にもなり得る」という命題が否定されないことを奇異にも感じない。「的」という漢字が付くことによって、その意味が一面的、特徴的なことへ限定されてしまう。「機械」→「機械的」、今時の平均台ができるロボットの動きは機械的なものではない。つまり、こういうことがいえるのだろうか。「Aがある。Aは、必ずしもA的であるだけとは限らず、非A的でもある」と。この思考方法が、出来事を型通りに狭小的に把握していこうとする癖を改善していくことになっていくだろう。・・・山登りも始める。まあ、いろいろと。

『ファイアズ(炎)』(レイモンド・カーヴァー)

saikaku2008-10-08

「自分が机に向かって短篇小説を書き始めるとき、ほとんどの場合、その話がどう進んでいくかという見通しなんて持っていないのだと(フラナリー・オコナー)」

借り出し期間が既に半ばを過ぎてしまっていたその本を、もう一度読み始めてみる。もう手に取ることはないと思っていた。でも手を伸ばせば届くところに置いてあって。今、過去を忘れて、拘りがなくなっている気がする。どんな本でも読めそうな気がしている。今まで、意味が無いとか滑稽だとか何かしら理由をつけて敬遠していた本でも、何かしらもう一度読んでみようかという気が芽生えている。これこそ、そう、目から鱗が落ちた、まさにそのことだと。自分の内に構えというものがあったのだろう。自分に合う、自分を満たしてくれる、そんな本だけを求めていたのだと思う。結果としてそんなことになっていた。これから、古・今・東・西・それぞれの本を虚心坦懐に読んでみよう。静かな気もちでしっかりと文字列を追ってみよう。そんな気持ちが生まれている。それでいい。読むということにおいて、何処へ連れて行ってくれるのか。書くことにおいて、どんな方向へ進んでいくのか。その出逢いのことも愉しみながら、新しい段階の読書へ入っていこう。

『物語の役割』(小川洋子)

saikaku2008-09-30

昨日から雨が降り続いている。台風15号の影響らしい。前の13号と同じように台湾まで行って戻って来るというコースを辿っている。そのまま西へ行ってしまえばいいものを。向こうの人は安堵しているのかもしれないが。そのコースを見ていると、確かにポテンシャルの「山」があるような気がする。気圧?偏西風?ジェット気流?ボールが「山」を登って滑り落ちて来ているような、そんなイメージを持つ。「山」があり、台風も「ボール」に準えられる。物語というのが、この非合理で過酷また自分の思いの侭にならない現実世界に別の光を当て、人間にとって得心できるものに変えていくものであるとすれば、自然科学というものも一つの物語だと思う。この不条理に見える世界を少しでも条理の通った世界、因果律の支配する世界へ創り変えていく働きを持っているのではないかと。重力というものも在るのだろうか?電磁界というものも実在しているのだろうか?でも、それを「主人公」にしていけば、自然界の構造が整って見えてくる。そのようなことなのだと思う。自然科学史、そこにも一つの壮大な物語が存在しているような気がする。

『武士道セブンティーン』(誉田哲也)

saikaku2008-09-24

秋晴れに誘われて昨日も自転車に乗って出た。気候的には申し分なかったが、でも充分には楽しめなかった。何故だろう。思うところ、それは目的地を決めていたからだと。前回は南西方面だったから、今回北西方面へ向かっていこうと暗に思い描いていた。それがいけなかった。自由に走り回ることつまり具体的な場所を決めずに気侭に走ることが、自分にとっては自転車に乗ることを愉しむことの第一条件であるような気がする。だからサイクリングではなくて、あくまでも単に自転車に乗る、ということなのだ。そして、同じことが本を読むということについてもいえるのではないかと展開する。今、どの時間帯に何の本を読んでいくのかをきちっと決めてしまっている。しかし、計画段階では巧く機能しそうに自信を持っているが、実践段階ではどうにも頓挫してしまう。今まで何回そのようなことを繰り返したのだろう。自分に嫌になるほど。本を読むことについても、そのときの気分に従って自由気侭にというか、今それに専心していける本を読んでいくことが大事なのだと思う。何も計画しない、決めていかないことに不安を感じもするが、今このときの気持ちを集中していけるもの、それに向かっていく、それが基本的には自分に合っていると思う。この切っ掛けをくれたのが、上の本。『武士道シクッスティーン』もついつい読んでしまった。おもろかった。続編。これもついつい読み終えてしまいそうだ。そう、このような本に出逢ってしまうところから、時間帯に固定した本を読んでいくという計画が脆くも崩れていってしまうのだ。

『ゲド戦記外伝』(ル=グウィン)2

saikaku2008-09-19

「魔法は名付けに始まり、名付けに終わる」

 日曜の午後は自転車を乗り回している。特に目的地を決めないで自由に走っている。分かれ道に来たときが緊張する。ぱっぱっと両方を見て、瞬時にどちらへ往くのかを判断している。選択した方向が行き止まりでも悔やむほどのことも無い。ただ元へ戻るだけのことなのだ。最近気の付いたことがある。自動車がよく通っている幹線道路に対して、ところどころ平行している旧街道がある。お伊勢さんに通じているのだろう。その道を走るのが本当に気持ちがいい。車は通らない。対向できる幅員が無い。人もほとんど通っていない。そのような道を自由に走っていく。昔はお伊勢参りの旅人や物の往来が多くあったのだろう。多分深夜には魑魅魍魎の類も通っていたのではないかと思う。宮崎駿の映画なら、それらの亡霊の間をすいすいと走っていることになる。そのような道が走りやすいのは、自然の形状・形象も踏まえ、何か気脈というものが通じている道だからだと感じる。それに対して、直線状の自動車道路はまさしく役人の机上での産物なのだろう。もっとその程度が高いのは文字通り高速道路である。走っていて面白いのは、その自然道と机上道が絡み合うところだ。混線している、混乱している、渾沌としている、そんな雰囲気がある。そして、そのような場所は「魔のカーブ」とか呼ばれていて事故がよく起こるのだ。今更、過去へ還ることも出来ない。ただ自然道を復活させていくことはできる。・・・このように書いてきて、それが為に、そう、自転車を乗り回しているんだ、という気になってきた。

『ゲド戦記外伝』(ル=グウィン)

saikaku2008-09-18

「あの森のことは、なかに入って、森自身から学ぶしかありません」

 定期健診の為に、病院の待合室でTVショッピングの番組を見るともなく見ていた。「○○ライト」という錠剤を呑んでいれば、通常の飲み食いしていても無理なくダイエットが出来るという。医学博士も推薦していた。それを2ヶ月試した4人の女性が、「私は夢の50キロ台が実現しました」とか「ウェストが8○cmになりました」とか何とかかんとか、・・・「う〜ウソだあ〜ぁ」。
 でも、人事ではないと思った。今の私自身を省みても、生活のリズムが狂っている。眠りが浅い。早朝というか深夜というか、そんな時刻に目が覚めてしまう。そして仕方無く起きだしてしまう。毎週火曜水曜日ぐらいになれば正常に戻っていくが、今週はそうはならない。何かモヤモヤしたものが心の内に懸かっている。「正四面体モデル」もまだ巧く機能していない。いちばん影響があるのが、「篆刻・篆書」に時間を割くことができない。本を読むということに傾注してしまう。また「書く」といっても、自己を充分に表現できていない気がしている。そんな状態が続いている。その原因に不図思い当たった。酒だ、と。連休が続くと当然(?)飲酒も続く。その相乗効果なのか、元の生活のリズムへ還るのにも日時が掛かる。そんなことを繰り返している。おそらく巧く機能していかないのは、酒なのだ。自分自身がその原因を作っていたのだ。として、・・・どうしていけばいいのか。そう、望ましいのは、呑まない! 或は、せめて土曜日だけのことに、していくとか。そう、そうなのだ。