『身軽にいきましょうや』

saikaku2007-01-12

また、夢を見始めている、それもうとうととしているときに、ほんの短い時間に見ている、そのようなことになってきている、その夢は、プールの中に居る、泳いでいるのか漂っているだけのことなのか、でも、呼吸は苦しくはなく、また、その不安もなく、ただ、そこに居る、そして上がろうとするが、プールの縁、それが手に遠くて掴むことが出来ず、なかなか上がれない、また、その取っ掛かりになるような、足場になるようなところも見つからない、でも、不安は持っていないという、そんなふうなこと、その、以前のこと、自己のおいて、その、自分がどのように生きていけばいいのか、その、生き方の問題の答は自己の内にあると、そんなことを書いたような記憶がある、そう、自己において、その、自分の未来を予測していくような、そのようなところがあると、自己というのか、或いは、唯識というのか、そのようなこと、その名前の多さが煩わしくて、自己という、そのように言っている、だから、自己について識る、そのこと、でも、自己自体刻々と変化している、外からの情報の所為なのか、或いは、更に下部構造というモノの所為なのか、変化している、その、今の自己の様相、そのことを識っていくこと、そう、そのことが、どのように生きていくのかいうことに関わってきている、その、自己からの方向性、それに合致した現実的な生き方をしていくこと、そのようなことによって、とても人間業とは思えないような、そんな業績も成し遂げられていくとも思う、そんなことになっていくと思う、人の話を聞いていくこと、そのことも、ただ、独りの人として、その人自身のこととして、その人自身が、自分の内の、その自己の有り様ということに気づいていく、それを合致していく、そのような本筋の生き方、それを路線修正していくのかどうか、まあ、そんなところなのだろうと思う、そう、そのようなことになっていくと思う、その、自分自身のこととしても、そのような生き方をしているのかどうか、そんなところもこともある、プールの水面下へ潜る、そのようなことをしていけば、多分、そこに居るということは、水面の下に居るということは、そう、注視すれば見える、でも、ふっと、その存在が消えてしまうようなことにもなっている、そう、暖簾の後ろの身を置くことも、そこに居るということは、足もとを見れば分かる、でも、ふっと視界から消えてしまう、そんなことにもなっている、何か、人の話を聞きながら、その、自分自身のこととして、その、自己を識るということを、今、相手の話を聞きながら、私は只管自己を識るということに専念しているという、そんなとき、何か、存在ということが、相手に視界からは消えている、というか、相手自身も、私に話すということよりも、自分に問い掛けているという状況が創られているという、それが、まあ、カウンセリングの完成型ではないかと思う。