『幸福な王子』

saikaku2007-01-17

この話はおかしいのではないかという気がしている、その、人を助けるということは、その、持っているところのモノ、宝石とか、何か、その、金目の物を与えるということではなくて、そう、そんなことではなくて、その人自身の持っているところのモノ、潜在能力というのか、その可能性というのか、それに働き掛けていくところに、それが可能性を増していくことに期待していくところにあると思う、何か物を与えて、それでよしとするような、そのようなことではないと思う、これでは、教会にも寄進しなさい、そうすれば神に召されるとか、何か、そんな空約束を与えているような、そんな印象を持つ、人を助けるということは、そんなことではなくて、そのような働き掛けということによって、そのことが相手の為になっていくと同時に、自分自身の為にもなっていくような、そのようなあり方だと思う、別に神に召されるとか、天国で永遠の命を得るとか、そんなことではなくて、今、この世界において、人間として生きていることにおいて、相手との関わりから自己について識っていくことにあると思う、生きるということが天国において成就されるのではなくて、今、この世界において実現していくことに意味があると思う、そう、何か、このようなまやかしがまかり通ってきたのだと思う、教会へモノを寄進させる、或いは、命さえも差し出すように要求をしていくとか、そんなことを行ってきたのだと思う、でも、何か、このようなことが多そうに思う、マスゲームに興じている教祖もいる、そう、そんなところもある、結局は、人間の弱さというか、依存心のと強さ、そのようなところを悪用しているものと思う、それ以上に自分自身が、その存在の弱さということを抱えている、そんなことなのだと思う、有名人が自分のことを知っている、そのことを嬉しがるような、そのようなこともある、何か、そのことだけで自分の存在が認められているような、そんな感覚を持つのであろうと思う、有名人との写真を掲げるとか、そんなこともする、そのようなことを、また、し続けていかなければならない性も感じる、でも、まあ、そのような人間もいるのだと、そう、そのように考えていくことにする、はた迷惑なのは困るが、そうでなければ、自分には関係のないところのこととして、まあ、そのような人間もいるのだろうと思う、でも、そのような人間のあり方からも、自分の鏡として、学んでいくところは確かにある、そう、そのようなところはあると思う。