「習字を書く」
赤手本を見て習字を書いている。気持ち的にはできるだけそれを忠実に書こうとしている。赤手本には罫線が引いてあり更にそれに影響されてきた。でも、この頃思う、でも何かが違うと。その見た目の感じと実際に何処へ筆を置き運筆していくのかは違うと。線どうしの間隔についても、見た目の感じと実際の筆遣いによって出来る間隔は異なっているのではないかと。見た目より狭くしたほうが引き締まって感じる。見た目の感覚ではないような気がする。まだ自信を持っていえない。どうにもそんな気がしだしている。習字とはなんだろう。まだ書と呼ぶにも自信がない。昨日の続きで言えば、見た目の字形ではなくて、その字の「自己性」というものを感じとり、自分を通して筆で紙にそれを写し取る。そのようなことではないかと思う。巧く字を書くだけではない。字が持っている「個性」を、先ず読み解いていくことから始まるのではないかと思う。絵画において、東山魁夷の「道」にしても、道が向こうへ延びているその風景に、何か「自己性」というものを感じとったのではないかと思う。そしてそれを写した。そんなことを思う。さてどうなるのか。