『火火』

saikaku2005-06-06

本を読まなければいけないとか、或いは、新聞を必ず読まなければいけないということも、何か、自分自身の依存心を強めているということ、そんなことになっているのではないかと思う。そう、別に、その、本を読んでいくこと、悪いことではなくて、そんなことではなくて、そう、多くのこと、それを受け容れていくことが、その、自己を表現することと同じように、そう、車の両輪として、そんなことになっていたのではないかと思う。そう、そんなふうに、読むことと書くことについて、バランスを取っていくことが大事なことなのではないかと思う。そんなふうに考えていた。そう、そんなこと、でも、結局は、読んでいくということ、そのこと、読んでいくこと、そのことに依存していってしまう、そんなところが、そして、何か、もっとよく自己を表現していくことが、そのことが大事なことなのではないかと思う。そう、そのこと、暫く、読むということを止めて、そう、受け容れていくということを止めて、そう、でも、そのようなことをしても、受け容れているということは、そう、起こっている。そんなことになっている。その、本を読んでいくということではなくて、そう、そんなことになっている。だから、今、書くこと、自己を表現していくこと、このように書いていくことも含めて、自己を表現していくことに徹していく、そう、そのことをしていく。『火火』を観る。その、自分の使命としてのこと、何をしていくのか、と。今、このように書けるということがある。このように書いていくこと、自己を表現していくこと、それができると思う。今、このように、ダラダラと書いていること、心の内のこと、何か、自然に、その、書くべきところのことが、そのことが湧いて来るように、心の底から染み出してくるように、そう、そんなふうなことになっている。今まで読んできたところのこと、或いは、受け容れてきたところのこと、そんなことになっている。自己を表現することに、その、自分の思いということを、そのことを出していくこと、そのこと、葬式を待たしてでも、焼くということ、そのことを優先していくということ、そんなこと、何をしていかなくてはいけないのか、或いは、自分がしていくところのこと、使命としてのこと、そのことを実践していくこと。自分の哲学としてのこと、自分の考え方、そのことを創り出していくこと、そんなことでいいのではないかと思う。書き続けていくこと、そんなことでいいと思う。自己を表現していくことでいいのではないかと思う。今までのこと、纏めていくこと、もう、完全に書けなくなるという、書く材料がなくなっていくというところまで、自分自身のこととして、そう、書くことを、行っていく。自分を創っていくために。