一つの言葉から。

saikaku2005-07-27

一つの言葉から、脳の働きについて考えていこうとすること、何か、そのこと事態に無理があるのではないかと思う、その言葉自体が、何を意味しているのか、そのことが判然としていないし、また、その言葉に過大な期待を寄せていくために、拡大解釈、実はそのようなことも意味として含まれていたんだとしていくような、何か、コテコテと、だんだんと意味が膨れ上がっていくような、そして、何でもありのような、で、結局、何もわかっていなかったという、そんなことになっていってしまうような気がする、クオリア、そんなことを思う、その、脳のことを、その機能のことを、或いは、意識が創り出されてくることにおいて、どのようなことが起こっているのか、そのことを、言葉によって理解していこうとすること、脳の働き自体のことを、その脳自身が考えているというような、その、主観的なのか、客観的なのか、その自体区別できないようなところのこと、何か、その、アプローチする、その仕方、道を変えていくことが、必要なんではないかと、今までの、その、科学的なこと、科学客観的な方法、それ自体を変換していくことが、根本的に必要なのではないかと思う、と言っても、さて、どうして行けばいいものかどうか、唯、自然に、今、このように文章を書いている、このこともある、自然と、その、言葉が創り出されて来る、或いは、その、構造、働き、そのことについて理解が深まっていけば、更に、その創造性ということが発揮されていくことになるという期待、それを持つこともできるかもしれないが、でも、細分化というか、その、脳内に分け入って行っても、何か、その、有能なこと、それが分かってくるのだろうかと、人の集団がある、一つのクラスがある、何人かの生徒がいる、此処の生徒の性格、人格、それがある、それぞれの生活を背景とした、その個性、それがある、確かに、でも、そのことを踏まえて、全体として、その、集合体としてあるとき、その全体の雰囲気、それは、また、違ったものがある、そのときに実感できるところのこと、自分も含めてのこと、自分も含まれたところで、その集団の有り様について、実感できるところのことがある、その、個々の性格を合わせてモノではないところの雰囲気ということが醸し出されて来る、そんなことになっていく、そのところでは、その、個々の性格の違いということよりも、基本的に共通項があって、同じような細胞の構造を持っている、そのことがあって、共通項があって、でも、それぞれが、少しずつ違っているという、そのようなところのこと、まったく違っている、そのときには、単純な足し算でいいと思う、でも、その、共通部分を持っている、でも、違っているところがある、そのときに、その、相互作用的なことが起こってくるような気がする。