もっと自由に。

saikaku2005-08-26

そう、もっと自由に表現していくこと、そのようになっていけばいいと思う、自由に、その、心の内のこと、そのことをタイプしていけることになっていけばいいと思う、その、心の内のことと、今、こうしているように、指先とが繋がっている、自然と繋がっている、勿論、神経回路ということになるんだろうが、でも、まあ、このようなことができるということ、そのようなことになっていけばいいと思う、哲学していくこと、その目的は、結局は、その、脳の機能、脳細胞の働き、その回路網のこと、それを如何に活発に働かせることができるのか、そのことに収斂していくのではないかと思う、そのようなことを思う、自分の脳が、それがどのようなことを思っているのか、どのようなことをイメージしているのか、そのこと、唯、自分のこととして、そのことがある、そして、そのことを表現していくこと、自由に、指先からのこととして、そのことをこのようにタイプしていくことができれば、そう、いいのではないかと思う、その、私がどのようなことを思っているのか、そのようなことになっていく、でも、そのとき、哲学を勉強していくときに、その、大家、というのが、そう、きっといる、昔、中央公論社の世界の思想「デカルト」を買ったとき、初めて買ったのがそれ、それを買ったとき、野田又夫、だったか、訳をしていた、そして、その名前が、他のデカルトの本にしても付き纏ってきていた、また、次に「プラトン」とかを買ったときにも、田中美知太郎だったか、その名前が付き纏ってきた、そう、今、そのようなことを思い出すと、身震いがする、もう毛嫌いによる身震いがする、身の毛がよだつというのは言い過ぎか、でも、そう思う、その大家というものの存在、それが、今思う、それ以後のこと、阻害していたことを、そのことはそのこととしてあるだけのことで、その、一人の思想家の本を読む、でなくても、ただの人の、その話を聴く、そのようなことにおいても、そのこと、その話の内容から、どのようなことを私が感じていたのかということが、そのことが大事なことであって、その、大家の言っていることを後生大事と受け留めていくこと、そんなことが、そして、そのことに靡いていってしまう、そんな風潮、そう、そのことからは、何も生まれてこないと、問題はどんなことを私が感じているのか、そのことから始まっていく、水素と酸素から水ができる、どちらの性質も持っていない、第三のモノ、それは違っている、共通集合ではなくて、単に重なっているということではなくて、第三のモノ、それは新しい性質を持っている、そのようなことなのだと思う、デカルトにしても、プラトンにしても、私がどう受け留めているのか、そのことから始まっていく、もっと自由に、そのことを考えていきたいと、でも、何か、呪縛に嵌る。