saikaku2005-10-05

どうして、その、自分と同じことだと、そのように考えてしまうのだろうかと、車で走っている、前を行く車も自分と同じ目的地へ向かっていると、そのように思ってしまう、まあ、そのようなことはほとんど無いのにも拘らず、そう思ってしまう、人のこと、その、自分と同じことを考えていると、そう思い込んでしまう、或いは、そのように期待してしまう、それぞれが違っているということ、そう、それぞれの目的、生き方、それも違っている、そのこと、考えてみれば、そのようなこと、当たり前のことなのに、でも、同一視している自分に気づく、そう、そのようなことが多い、鎌倉仏教が興る、浄土教浄土真宗が起こって来る、また、それが、庶民に広まっていく、それまでの、密教ということに変わって、だんだんと、その教えが広まっていく、密教においては、自己内のこととして、自分に拠るべきところのこと、それを見出していく、自己から始めていく、或いは、自己の世界の発見していく、そして、そのことが、大いなるものに通じているという、そのようなことを感得していくこと、そんなことになっていく、また、それが、普遍的なものとして、自他の関係を繋いでいく、でも、鎌倉仏教のときから、その、自己に拠るということよりも、他力ということ、阿弥陀如来、それに頼っていくということ、そのような傾向が現れてくる、また、念仏を唱えていけばいいとか、鉦や太鼓をたたいていくこと、そんなことになっていく、頼っていく、自分自身のこと、そのようなことよりも、他者に頼る、そんな心性が形成されていったのではないかという、日本人の霊性というよりも、日本人の目覚めということよりも、その、集団的主義な在り方、ムラとしての、村落共同体的なところのこと、そんな心のあり方が形成されてきたのではないかと思う、他者の頼っていく、また、みんな同列視していくということ、そのような人間関係のあり方、或いは、個人としての生き方ということよりも、周りに合わせていくという、そんな風潮ができてきた、何か、その、鎌倉仏教ということ、それも、今の葬式仏教ということへ堕落していくことの始まり、そんなことを思う、その、個人としてのこと、もう一度、そのことへ戻っていく、自己の在り方へ戻っていく、或いは、親鸞を超えていくこと、日蓮を超えていくこと、そのようなことが必要なことなのではないかと考える、みんなと同じようなことではなくて、その、個人としての在り方ということ、それぞれが異なっているということ、それぞれが個性的な自由人となっていくこと、そのことを前提として、人間関係ということができていくということ、柵がなくなっていくこと、或いは、拘りも無くなっていくこと、そのようなことになればいいと思う。