自力と他力。

saikaku2005-10-14

下手に自力で遣っていく、そのようなことよりは、その、この世のこと、自分の力だけではどうにもならないことがある、運命というのか、そんなことも降り掛かってくる、或いは、時の権力者に振り回されてしまう、そんなことも起こる、自分の力だけではどうしようもない、どうしようもない、そんな事態が出来してくる、そう、そんなときに、自力でというように考えていくよりは、もう、そんなことを露ほどにも思わず、そう、他力、それに縋っていく、というか、他力本願に生きていく、そのような生き方、親鸞の、その、経験から出てきているのではないかと思うが、そのような考え方、唯、念仏を唱えていく、そのことに没頭していく、少しも自力で遣っていこうとは思わない、そのようなことが基本にあると、そう思う、だから、悪人正機説とか、そのことも、善人よりも悪人の方がより往生できるということではなくて、そのような比較の問題ではなくて、善人であっても悪人であっても、誰であっても、等しく、その、念仏を熱心に唱える、自力ということを少しも恃みとすることなく、あくまでも、阿弥陀如来、その助け、それを求めていくこと、そのようなことをしていけば、そう、往生できる、そんなことなのだと思う、比較の問題ではない、そう、そのようなこと、どうなんだろうかと、密教のこと、そのことにおいては、自己の内のこと、自分自身を拠り所にしていくということ、自己の内において、その、密、というところがある、そのことを発現させていくこと、あくまでも、自己によっていくこと、その、大日如来と呼応するところのことが、そのことが自己内にもあるということ、そのような遺伝子を持っているということ、そう、何か、まだ、浅い読み方においては、空海親鸞、その、両極端、そんな感じがしている、そう、生き方において、自力と他力、そのことにおいて、正反対の、そんな場所に居るという、そのような感じがしている、そう、でも、なんとなく、その位置関係、それが、その、正反対、離れすぎているということではなくて、その、もし、生き方のついての考え方、その全体の配置が円環をなしているとすれば、その、もっと近い位置にも居るのではないかという、そんなことをイメージしている、同じことをいっているということまでは、そのようなことまでは言えないとしても、その数学で、0と∞、それが内容的なよく似ている、∞にまで拡大していけば、その密度は0に近づいていくという意味において、そう、そのようなことにおいて、よく似ている、そんな関係ということが、その、自力と他力、もう、少しも自分の力ということを恃まない、そのような生き方、或いは、自分の力を最大限伸ばしていくということ、そんな生き方、結局は、同じところに落ち着くのではないかという、そんな気がしている。