生き方の問題。

saikaku2005-10-16

どのような生き方をしていくのがいいのか、そのことが常に問題として、ある、今までのことを省みると、22歳までのこと、それまでは、学生としての生き方、ヒンズー教で言うところの、学生期、それに当たっていたんだと思う、数学、或いは、物理のことを学んでいくこと、そのことが中心のことでもあったが、本を読むこと、ノンジャンルに、いろんな本を読んでいくことが、その時期のことであったと思う、しかし、そのことは、今までも続いてきている、そう、今も同じことをしている、形は、意味は違っているのかもしれないが、同じことをしている、そして、次の時期、家住期ということよりも、その、仕事のこと、そのことに精通していくことを、そのことを主として行ってきた、そのことの勉強ということを、そのことを行ってきたという、その仕事のイロハから、多くのこと、その成り立ちの頃は、いつまで経っても、「イロハのイ」と言われて、何時になったら「イロハのロ」へ進んで行くのかと、そんなことを思っていたこともあったが、次の十数年の時期、その仕事に習熟すること、そのことを中心的なこととしての、そんな生活であったと思う、そして、厄年を境にして、或いは、その数年前からのこと、その、カウンセリングの学習ということを始めていた、そのことが、一つの転機ということだったと思う、大きな転機だったと思う、その切っ掛けとなったこと、それは、ホンに些細なことであったが、でも、その入り口が狭かったとしても、そんな門であったとしても、その内側、それは広大なものであったという、そんな気がしている、今も尚、そのようなところの延長にあるという、その森の中を歩いているという、そんな気がしている、その、いろいろなこと、実存主義的なこと、行動療法的なこと、そして、精神分析的なこと、或いは、フォーカシングとか、ゲシュタルトとか、いろんなことがあった、そして、中でも、やはりと言うべきか、ユングのこと、大きな影響を得たと思う、そのことからか、東洋の思想へ、そして、仏教へ進んできている、今の時期、第Ⅲ期ということになるのだろうかと、その、仏教についての学習ということが、或いは、実践ということが、その、生活の核心的なところのことになっている、そう、そんなことになっている、そのような進み方をしている、そして、今から、その、ブラックホール、その中へ這入っていくような、そろりそろりと、そう、這入っていくような、また、その、親鸞と言う存在、そのことを、今までのことの、その、関連において、その延長線上のこととして、そのようなこととして、今までのことと続いていることとして、理解していく、という、そのような綱を持って這入っていけば、まあ、迷うこともないだろうと、そう、そのように思っている。