更に、他力性。

saikaku2005-10-22

昨日は、東寺の弘法市と、国立博物館最澄と天台展へ行く、そして、梅原猛の「最澄空海」の本を買う、そのような一日だった、また、放念や親鸞に関係する土地、或いは、寺社を訪ねることもできる、そのようなことにもなっていくのだろうと思う、これからのこと、多くのことを、その、訪ねていくこと、また、自分自身へも尋ねていくこと、そのようなことになっていくと思う、東寺では、その講堂で、仏像の並んだ曼荼羅、それを見る機会もあった、最澄展では、経典、書物よりも、仏像を熱心に見ていた、そう、そのようなことでいいのではないかと、そして、そのときに、釈迦如来像、或いは、他の仏像においても、その、自分から見ていく、ということではなくて、仏像から、その、話し掛けて来る、そのような声を聞いていくという、そんな鑑賞の仕方というか、或いは、対面の仕方、そのようなことができるのに気づいた、そう、仏像からの声、それを聞いていく、向こうから話しかけて来るところのこと、そのことを聞き取っていく、そのようなこと、確かに、どの仏像だったか、そのような声を聴いていくことができた、具体的にどんなことを言っていたのか、それを言語化していくことはできないとしても、何か、その、語りかけて来るところのこと、そのことがあったと思う、確かに、その、外からの声なのか、仏像を見ているという限りにおいては、そのことから声を聞いている、でも、その声、それ自体のこと、その感じということ、それは、内からの声、そのようなことも思う、或いは、その二つのこと、両界のことが、呼応しあっているという、そのように考えることの方が、その、自然なことと思う、外から、その、直接的に聞く、そんなこともある、人の話を聞いていく、そして、そのとき、どのようなことを感じているのか、そう、そのことを言葉にしていくということ、そのことができる、仏像を見る、そして、その声を聞いていく、同じように、自分自身が、どのようなことを感じているのか、そう、どんな感じが起こってくるのか、そのことを、その、自分が意図していること、ではなくて、唯、自然なこととして、受け留めていく、恰も、そのことが、他者によって惹き起こされた、そのようなこととして、受け留めていく、だから、他力性ということ、そのこと、外からの声、それを聞いていくことによって、どんなことを感じているのか、そのことがある、その、自然なこととして、内からの声、そのことを聴いていくということもある、そのようなこと、それを進めていけば、その、経典の文字、それを観ていくということからも、何か、深いモノを感じていくこともできるのではないかという、或いは、どのようなことからでも、そう、宇宙にあるところのこと、どんなことでも、何か、感じていくことができるのではないかと思う、そして、それを表現していく、そんな生き方ができるのではないかと思う。