『ヒトラー 最期の12日間』

saikaku2005-10-24

その映画を観る、その、日本語の題名から予想されるような、ヒトラーの最期を描いた映画ということではなくて、ドイツ国民というか、日本人も、同じ問題意識を持つことが、また、日本においても解決していない、その、狂信性というのか、総統という人間に、思いを寄せていく、その、自分の生き方を預けていく、そのような国民性、それを描いたところの映画だと思う、舞台は地下司令部、その閉ざされたところ、外部の状況がどのようなことになっているのか、そのような情勢も確かには伝わってこない、そのような閉鎖的な空間、そのような中での、唯、総統の為にという、でも、反対意見を持っていても、そのことがはっきりとは言えない、その、先が見えないこと、そのような中でのこと、唯、その行き先には、死が待っているというか、自殺することしか選択肢の無い、そのような状況、どうなんだろうかと思う、そのようなこと、唯、総統の為という、そのこと、それも、今まで問題にしてきた、他力性、純粋な他力性、ということになっている、そう、このところのこと、このことが大きな違いなのだと思う、人の為に尽くしていくということ、唯、他者の為に尽くしていく、自分の人生ということを預けてしまっていくということ、自分の判断、その前に、その、外の情報を得ていくこと、そのことが欠落している、閉ざされて中での情報、そして、組織として都合のいい、そのような情報しか伝わってこない中での判断、それが、もう、偏ってしまうことは目に見えている、そう、そのようなこと、判断停止の中で、他者の為に尽くしていく、或いは、そのように操作されていくこと、そのようなに思い込んでいくこと、思い込まされていくこと、そのようなことが起こり得る、そのような他力性もある、そのようなこと、それに落ち込んでいってしまう、その危険性、・・・そのようなことではなくて、その、外のこと、他者のこと、そのことを受け容れていく、その、区別すること無くて、広く、その、外部の情報を受け容れていくこと、そのこと、先ず、そのことから始まっていく、そして、そのことの中で、どのようなことに、その、自己として呼応しているところのことがあるのか、唯、自然なこととして、意図的なこと、期待の強いこと、そのようなことではなくて、自己の内からのこと、その、喚起されてくるところのイメージ、それを表現していくこと、自分のこととして、私がそう感じているところのこと、でも、それが、より深いところのことであるという、そのようなところのこと、私がそう感じているとは、そのようには断言できないようなところのこと、もう、私という領域殻とは判然としないところから、そのようなイメージ、それを表現していくこと、その、他力性、単なる他者の為、ということではなくて、自己を通しての他者、そのようなところからのこと、決して行き詰まりにはならない、そのようなところのこと、・・・でも、その違い、難しい。