何かが違っている。

saikaku2005-10-28

あの世というのはあるのだろうかと、極楽というものもあるのだろうかと、往生するということもあるのだろうかと、そのようなこと、夢見させるようなことをいう、そのことは、本当にことなのだろうかと、そう、どうも、嘘っぱち、そう思える、どのような宗教においても、現世において苦しむこと、或いは、死ぬほどの苦しみを味わうこと、苦行すること、現世そのものが苦しみの世界であるということ、そして、その苦しみ、死ぬほどの苦しみ、それを通り越してこそ、楽しみの世界、安楽の世界に這入っていくことができると、そのように教える、何か、今、そのような説き方、そのことに、嫌悪感さえ覚えている、苦しみということと、楽しみということも、相反することでもないという、反対語ではないと思う、その、為政者にとって、現世が苦しみであるということ、租税を納めること、労役に従事していくということ、庶民に対して、その生活の苦しみ、それを耐えさせていくために、そして、権力者の生活を保証していくために、その、今は苦しいときであるという、そして、そのことを通り越してこそ、その、来世では、安穏な世界、それが待っている、今を苦しんでこそ、そのような世界へ生まれ変わって行くことができるという、往生することができるという、何か、非常に都合のいい、結局は、そのようなことではないかと思う、結局は、そのように、都合のいいように、そのように利用されていただけのことなのではないかと思う、その、生きることが苦しいということ、四苦八苦があるということ、そのことが、人間の、その欲望ということに起因している、そのこと、自分の抱いている期待値、それが高すぎるということ、そのようなこと、自分で自身の苦しみの元を作っているということ、そのことは、確かなことだと思う、しかし、その、苦しみということ、それが、その苦しみということについて、自分の望み、それを理解していく過程ということ、それを解消していく過程ということも、苦しいということではないと思う、蓮の花が咲く、その、泥の中を上昇してくるということ、そのことが、その泥の世界、その過程が苦しみであるという、そのようなこと、でも、その、成長してくるとき、その上昇過程、それが苦しみであるというように捉えなくてもいいのではないかという、そのように思う、今、この世界に生きているということ、そして、自己の内のこと、そのことを実現化していくこと、そのこと自体、あの世のこととか、そのようなことではなくて、敢えて苦しんでいくということではなくて、今の生活ということを大事にしていくこと、そのように意識を変えていくこと、それができるのではないかと思う、人を救済するということも、何か、違っている、まやかしということが、そのことが入っている、そのように感じる。