疾駆する悲哀。

saikaku2005-11-08

『春の雪』、もうすぐ読み終える、そこまで来ている、もう数十ページを残しているだけ、そして、もう結末も思い出している、数十年前に読んだときの記憶がうっすらと残っている、そのことも不思議なことだと思う、脳の何処に残っているのだろうかと不思議に思う、だんだんと読み進むにつれて、多分こうなっていくのではないかという記憶、それが蘇って来て、そして、そうなっていく、今では、その方向が確りと見えている、そのようなことに驚く、また、そのときは辞書を片手に読んで痛んだという形跡も残っている、今なら、その意味も知っている言葉について、辞書を引いてその意味を書き込んでいる、今は、反対に、その書き込みを消しながら読み進んできた、また、何処に注目したのか、どんなところが気に入っていたのか、今となっては判然としない、また同調することができにくい、そのような文章に括弧をつけている、それも、今は消している、しかも、その本の活字は旧字体であって、それをものともせずに、といえるのかどうか、旧字体の文章を読んでいたのだと、そのことも今更ながら感心している、昔の私の、その読書の姿勢に、今、感心しながら、もう少しのところまで来た、今、この作品について感じるところのこと、自分にとって意味するところのこと、それは、特に三島の最後に関連付けているのかもしれないが、破滅というにある、滅びの美学、というのか、それを感じている、今では、勅許ということの重み、それを理解することはできにくいが、その、強固に縛られた中で、或いは因習に囚われている中において恋愛していくこと、人の目を避けながら、その逢瀬を重ねていくということ、むしろ、そのような中であってこそ、燃え上がっていくという、その恋に没入していくということになっていく、そして、その当然の帰結が得られる、結局は、そのような行為を重ねていけば、結局は二進も三進も行かなくなっていくこと、そのような状況に陥ることを期待していたのではないかと、そのように思えてくる、破滅に向かうことは目に見えている、でも、それへと突き進んでいく、破滅することを望んでいるとさえ思う、破滅することによってしか、その当時の、或いは、今も一部に残っているのか、その旧弊な生活を変えていくことができなかったのかもしれないが、しかし、その、社会性ということを問うということよりも、そのような社会も破滅させていくということよりも、一人の人間の生き方、そのことの中に、滅びの美学、それが埋め込まれているという、そのような意味のほうが強いと感じる、いずれにしても、滅んでいく、何事も衰退していく、でも、そこで話が終わるということではなくて、その破滅の先、その先への抜け道、それもあるということ、浄土宗では極楽往生という、そのような世界があるのではないかという、それを感じる、ガーッと突き進んでいくことをすれば、その勢いをかって、異次元の世界へ、そのまま転生できるのではないかという、そんなことも期待していたのではないかと、疾駆する悲哀ということではありながら、でも、そのような転生への期待、その方法には、多分、悲哀ということ、それよりも、滑稽さも含まれている、割腹自殺ということにも、時代錯誤的な、そんな滑稽さを感じてしまう。