抑圧されていくもの。

saikaku2005-11-10

フランスの暴動、どうして、ここまで酷くなっているのか、一時的、突発的なことだというイメージがあったが、ここまで拡大していること、不思議に思う、先進国ということ、またフランスという国柄、もっと洗練されたところをあるというイメージが持っていた、しかし、暴動が拡大していく、自動車を焼くという行為が突出していること、そして、それがなかなか終息しない、他国への波及ということも懸念されているということ、そのようなことを見るに、不思議さとともに、その、今までに抑圧されているところの大きさ、或いは、根深さ、そのことに思いが至る、移民の若者だけではないのかもしれない、その階層が、特に抑圧されているところがあるのかと思う、一つは、移民のもつ文化的なこと、もう一つ、若者としてのこと、それがあるのではないかと思う、移民として、他国での生活、そして、その生活文化に溶け込んでいくということの難しさがある、それについて、民族間の融和として過去の日本も、また、キリスト教を流布していく過程においても、また、現在においても、自国の文化を強制的に押し付けていくということを行ってきた、自国の文化の優位性、汎用性という意識があるように思う、その裏返しとして、相手の文化程度、それを低く見ていく、未開なものとして見ていく、或いは、そのようにしか見られないということなのかもしれない、相手の文化を理解していく術をもたない、それだけでも、偏狭な、独善的なということになるが、そのような自意識は持っていないのだろうと思う、そのように、強圧的に、暴力的に押し付けていくことは、大人が子供に対すること、それにも似ている、子供、それも人間の成長過程として低度に見られている、相手が子供であるとか文化的に未開であるという見方をしていくとき、その対象を強制的に変えていくことができるのではないかという、また、そのことが自分の使命であるという錯覚に陥る、また、それだけの能力を備えているという自惚れにも通じていく、そのようなことになっていく、しかし、一人の子供であっても、また、一人の人間であっても、また、その集団としての民族ということであっても、そこには、それぞれが持っている、生きる種子、成長の遺伝子、それが基本的にあるのだと思う、どのように成長、発展していくのか、その過程は環境によって異なるとしても、どのように成長していくのかということは、何か、基本的なものを持っていると考える、一人ひとりの人間の持っているところ生きる種子、その遺伝子、それをどのように発芽発現させていくのか、それが、それぞれの生き方の問題ということであって、他者が、他国が、干渉していくものでもなく、況してや、強制していくことでもない、相手が何もわかっていない子供であるからといって、強制していくことは、その生きる種子を撓めてしまう、精神的に殺してしまう、或いは、その生きる源を枯渇させてしまう、そのようなことになっていく、何か、そのような事態が、現在、深く進行しているのではないかという、蔓延しているのではないという、そんな危惧を持つ、一人の人間の生き方、民族としての文化的な意義、それを変えていくことは、その者自身が行えることであって、強制的に転換させられていくことは不可能であると、表面的には従属しているように見えても、その抑圧されたところのものは鬱積されていくと思う、そんなことを思う、何か、その救いの道はあるのかと。