柵を解く。

saikaku2005-11-18

昨日書いたことを基にしていくのではなくて、今、書けることを書いていく、昨日のは新鮮味に書けている、もうそれはいいと思う、一度書いたことには意味をもう感じていない、そのようなことになっている、そして、また方法を改めていく、問題は別のところにあったように思う、今朝起きたときに痛烈に感じた、頭が固くなっていると、脳細胞の働きに何かしこりが生じていると、思考回路が固着化してしまっていると、そして、先ずそれを解き解し二課からなければならないと、そう感じている、その為の方法が、私にとっては、このように書くという作業なんだと、その拘りに焦点を当てていきながら、その周囲を回転してきながら、その感じられるところのことを表現していくことによって、だんだんと凝り固まっているところが解れて来る、そのような経過が必要なんだと思う、もし、この作業をしなければ、或いは、寝続けていれば、脳の自動的な働きとして、夢をみることになっていく野田と思う、夢を見る、それでもいいかもしれない、でも、結局は、その後で、その夢を分析していく作業が必要になってくる、それも手間の掛かることである、今、その柵を解く作業を行なっている、人間関係の問題、期せずして、意見が合うということがある、それも、前のことは、私の中では、柵になっていない、恨みに思っていることもない、拘りをなくしている、それも、おそらく、多く自己を表現していくことによって、心の内で凝り固まっていることを解き解しているのだと思う、そのような機会を多く持っている、そのことが寄与している、その表現内容が重要なのではなくて、書くという行為そのもの、自己を表現するということそのものが大事なことなのだと思う、そして、解き解された状態、しこりのない状態、それを「空」と感じる、言い方を換えれば、拘っている、凝り固まっていること、それが煩悩を持つということかもしれない、そのことを思い合わせれば、煩悩を持つということから、表現すること或いは創造することへ発展していくとすれば、煩悩が宝物のようにも思えてくる、私のこととして、このように書く、そして心の内の柵を解消していく、そのことがあって、相手の話を素直に聞いていくことができる、相手にとっても、それが一つの自己表現になっていけばいいと思う、そのことを願う、もう一度、問題点に戻る、相手の話をそのままに聞けないとき、柵は自分の内にある、それに抵抗する素は私自身の内にある、他者の考えををそのまま受け留めていく、また、それぞれが自分への拘りを捨てて、折り合っていくことができれば、そして、どちらの考えでもなく、第三のものが創造されていけばそれはそれで大変に素晴らしいことだと思う、そのような人間関係でありたいと願う、先ずは、まさしく、隗より始める、隗より始めていく。