四十九日の法要へ。

saikaku2005-11-20

このようなことも起こって来る、親戚一同が会する、誰が誰なのか、どのような親戚関係にあるのか、そのことを再確認するかのように、そして、自分がどのような位置にいるのか、そのことも再確認するかのように、法事が営まれる、そして、そのような席に出ることも、苦痛ではなくなっている、そのような年齢になっているというだけではなくて、人間の繋がり、家系ということ、そのことの中に、自分の存在というものが、どこか複雑さをはらみながら、現れてきている、一つ違ったことが起こっていれば、それ以降のことはなかったということが、全然替わったものになっていたということ、それを思うと、不思議な気がする、法事に幼児が参加すること、喧しさを敬遠して参加させないことが多いのかもしれないが、騒々しくあっても、子供は子供なりに、幼児であっても、この出来事が記憶に残っていないとしても、何か、その場の雰囲気ということを感じていくところがある、それにも感心する、幼児であっても普段の雰囲気とは異なっていることを鋭敏に感じている、また、そのようなことが、その場の雰囲気を知っていくということが、そして、どのようにしなければならないということを身をもって知っていくということも、大事なことなのだろうと思う、昔、その、世話になっていた、代替わりをしている、その、昔の子供が、今は、お母さんとなっている、そして、その子供が、ちょうど昔知っていたときの年齢になっていること、そして、もちろん似ているということ、そう、そのことも面白く感じていた、親戚の、そのつながりの中でのこと、その、引き継いでいくところのことがある、何か、伝わっていくところのことがある、そのようなこと、不思議なことが起こっているのではないかと思う。