他者と他者性。

saikaku2005-12-01

語り掛けてくるのを待っている、内側からのこと、そう、自分から語り掛けていくのではなくて、無理に語り掛けていくのではなくて、何かを書かなければならないと、そのようなことから、探し捲くっていくということでもなくて、内側から、自然と出て来るところのこと、そのことを待っている、そして、それを、イメージ、それを言葉にしていくという作業、それを行なっている、ここで行っている、そのようなことなのだと思う、ただ、残されているということ、というか、積極的に行なっていけるところのこと、それは、このように書いていく、自己の内からのこと、そのことを表現していく、そのことだと思う、本を読むとか、人の話を聞くということは、その、ヒントを得る、自己の内において、何か、その、顕れて来るところのこと、そのことについて、ヒントを得ていく、そのようなことであって、その、何処まで、自己からのこと、そのことを表現していけるのか、何処までも、そう、このことを続けていくこと、そんなことになっていくんだと思う、マズローの、段階欲求説というのか、その、欲求という言葉いいのかどうか、だんだんと進化していく、というか、深化していくという言葉のほうがいいと思うが、そのようなこと、諸段階では、欠けているところのこと、それを満たしていく、そのような段階、そして、それを経て、自己を実現していく、そして、更に、自己を超越していく段階、そこまで登り詰めていくと、そのように、そう、その段階、最終段階なのかどうか、そう、自己を超えていくこと、そのような段階、それは、他力性ということになっていく、そう、別に、東西を問わず、同じようなこと、それを想定している、そんなところも面白いことだと思う、そのようなことになっていく、そう、語り掛けてくるのを待っているということ、このことも、相手からの話を聞いていくということと同じことであって、相手が語り掛けてくることを待っている、そのようなこと、また、自己から、自己の内から語り掛けてくることを待っている、そのことも、恰も、自己の内、その内には、自己ではないところの、その、でも、自己に接しているところのこととして、他者が存在しているという、そんなことなのだろうと思う、そして、その、外側の他者という存在と、その、内側の他者性ということ、それが呼応しあう、そのようなことによって、自己の内に、イメージが生じてくる、そして、それを言葉にしていくという、そのような作業ということが可能なことになってくる、そんなことなのではないかという、そう思う、そして、表現していくという作業を通して、自己を拡大していく、自己という容器、それが拡大していくこと、また、耐性を増していくということに、そんなことになっていくのではないかと思う、多くのことを受け容れていく、そして、多くのことを表現していく、その循環が、今は、巧く回転している。