自己の先にあるもの。

saikaku2005-12-07

自己を通して表現していく、そのような言い方をしている、自己を表現する、ということではなくて、自己を通して、その先にあるもの、そのもののこと、それを表現していくという、そのようなこと、それというのは、何なのだろうかと、そのものを名づけたいと、そんなことを考えている、そのものに相応しい名前、そう、そのことを考えている、そのようなこと、魂という、そんなことになっていくのだろうかと、今までに、その、遣って来た、そのことからいえば、魂という言葉が相応しいことになっていくのだろうかと思う、書くこと、今、このように書いていること、それは、魂からのメッセージ、それを自己を通して表現している、言葉にしている、そのようなことなのか、或いは、読むということ、そのことも、その、自己を通して、反対に、外から、魂の世界へ、その、流し込んでいる、何かを伝えている、そんなことなのかと思う、そう、そのようなこと、魂の世界と、そして、今、自我の世界、というか、この世界、表向きの世界、自己を通して繋いでいる、そんなことになっているのかと思う、そう、そのようなイメージを持つ、このようなこと、魂のこと、そのこと、或いは、普遍的無意識という、そんなことになっているのではないかと思う、そして、その、魂の世界ということが、他力性ということでもあって、そのようなことの現われでもあって、そう、自分自身から離れていけるという、自我から離れていけるということにもなっていく、そして、その、集中していくこと、そのこと、自意識から離れていく、その為のこととして、大事なこと、結果としてのことではなくて、その、書くということに、没頭していくこと、或いは、読むということにおいても、没頭していくこと、そんなことになっていく、或いは、昔、念仏を唱えるということ、そのことに没頭していくことも、同じことなのかもしれないと、その、狂気染みて来る、そのようなところもあるが、そのことによって、自分以上のこと、自分ということ、それを超えていくことができる、そんなことになっていく、また、偽るということ、嘘をつく、そのようなことは、魂との繋がり、その回路を遮断してしまう、そして、自分どまりのこと、或いは、じぶんのそんざいということを、自画像を今以上によく見せていこうとすること、そのようなことの為に、偽っていくということ、或いは、悪事に手を染めていくということ、壊していくということ、そのようなこと、魂との連携、それを絶っていく、そんなことをしていると思う、多分、そのような生き方、魂との連携、それが絶たれた生き方というのは、デラシネとしての、そのような生き方になってしまうのだと思う、そのようなこと、この言葉、昔の、五木寛之の本に書かれてあった言葉、今は、定着しているのだろう、そんな気がする。