何処まで、表現できるのか。

saikaku2006-01-11

中学高校と、そのときには、数学の問題、多くの問題を解いていたことを思い出す、それこそ、問題集の片っ端から、全ての問題を解いていたと思う、そのようなことをしていた、今、このように書いていること、思いつくままに書いているということをしている、このこと、でも、これも、結局は、その、数学の問題を解くということと、同じことをしていると気づく、その、思いつくこと、そのことを言葉にしていっている、同じように、数学の問題を解くということにおいても、その、型に嵌めて解くということ、それもあるが、少し難しい問題になると、何か、その、閃き、それを必要としている、いろいろなこと、試行錯誤を繰り返していく、そんなことをしていく、考えるというか、その、この方法ではどうだろうかとか、そのことを試していく、運よくそれで解けるということもあるし、解けない、そんなこともある、また、そのときには、新しい閃き、それを待っている、そう、そして、そのことをまた実行していく、同じように、此処へ書いていることも、結局は、一つの思いつき、或いは、イメージ、それを基にしている、そう、そのことから始まっている、そして、そのことを言葉として表現していくということにおいて、何処まで、その、答えということではないのかもしれないが、ある程度、自分で納得するところまで、そこまで書いていくということをしている、そう、同じようなことなのだと思う、何処まで、その、言葉として課、或いは、数式としてかの違いはあるとしても、その、何処まで敷衍していくことができるのか、或いは、深化させていくことができるのか、或いは、拡大していくことができるのか、そのことにある、相対性理論が正しいのかどうか、そのこと、正しいのかどうか、その、自然の心理を表しているのかどうか、ということなのかと、その、その理論によって、世界中の科学者が鼓舞されていくこと、喚起されていくこと、そして、深化、拡張していったこと、そのことに正しさ、というのか、真実さ、それがあるのではないかと思う、嘘がいけないことは、そのことによって、表現が停滞してしまうこと、その嘘を死守するということになってしまうこと、そのことによって、嘘はいけないと、そのように思う、大事なこと、表現するということが、そのことが広がっていく、そのことに何か、真実さ、それを見出していくことができないのかと、そのようなことを思う、自然がどうなっているのか、そのようなことよりも、表現能力を持つ人間として、如何に、その表現内容を深めていくことができるのか、そのことに真実さを求めていく、人の生き方によって、その、自分の生き方が変わっていくということも、新しい生き方を創造していくということも、同じようなことなのだと思う。