『親鸞入門』

saikaku2006-01-27

確か、以前は読めなかった、読み進んでいくことができなかった、でも、もう一度手にとってみて、今度は読み進んでいける、この違いは何なのだろうかと、やはり、自分が変わったのかと、親鸞のことを受け容れていける、そのように何か変化しているところがあるのかと、どうなんだろう、特別、そのようなことを感じているのではないが、そんなことも起こっているのかもしれないと、この本からの印象として、その、誠実さ、生きることへの誠実さ、そのことを感じている、真実なところのことを求めていこうとしていること、そのこと、肉食妻帯ということについても、古今東西の宗教者は、そのことを避けてきた、禁欲ということ、そのことを戒律に上げることによって、その問題を避けてきた、そんなことなのだと思う、実は、人間にとって一番大きな問題であるはずのところのこと、それに向かう勇気を持たなかったという、それに対して、親鸞の態度というのは、真正面から向かい合っている、そんな印象を受ける、そのようなことができたのは、一つには、その、妻としての、恵信尼だったか、その存在も大きかったのではないかと思う、その存在を、観音様の生まれ変わり、その、二つ目のこととして、そのことを夢のお告げとして、受け容れていること、夢ということを、その、人生の変わり目において、そのことを重要視している、そして、その、お告げとして顕れたのが、その、恵信尼ということだったのだと、しかし、そのことによって、僧侶としての自分の立場、そのことも曖昧なことになっていく、しかし、それにもまして、その生き方のおいて、誠実であったような、そのような印象を持つ、そして、そのことに、その、人間関係においての、もう一つ、大きな意味が含まれている、その、他者のこと、その人間性、それを変えていくことができるのかどうか、そう、相手を変えていくことが、或いは、自分自身を変えていくことができるのかどうか、その、叱責する、或いは、指示する、或いは、命令する、強い言葉を与えていくことによって、その、相手の態度、それを変えていくことができるとする、指導していくという、或いは、ソフトには、ティーチングということになっていく、教育というのも、それができるとしている、でも、そう、それは無理、多分、その基本は間違っている、人間は変わらない、容易くは変わらない、自分から変わっていくこと、それしかないと思う、本人自身が変わっていくこと、それしかないと思う、その為のこと、それは、その、親鸞のように、個人として、その、誠実な生き方をしている、何か、真実な生き方、それが、聖徳太子、それに発しているらしいが、そのような生き方を真似ていく、そのようなことなのだろうと、そのような生き方を見聞する、そのことを受け留める、そのことから変化が起こっていく、でも、また、なかなか、受け留めないということもある。