『ポテトスープの大好きな猫』

saikaku2006-01-28

どのように本を読んでいけばいいのか、どうにも落ち着かない、領域に分ける、ということ、自分の内ではすっきりとしていると、そんなふうに感じられていても、いざ、実行していっても巧くいかない、結局、読めない、今、自分が読もうとしている本、という、その、気持ちが前向きなことにはなっていかない、そんな中でも、その絵本は読めていく、また、『親鸞入門』という本も読めていく、積極的な気持ちで読み終えることが出来た、そんなこともある、期待しているようには読み進んではいかないということ、或いは、分類すれば、その、時間の区切りを設定していけば、嫌でもその本を読んでいくから、結果として読めていくという、甘い考え、それがある、その、嫌でも、ということ、そのこと、それがどうしてもネックになっている、そんな感じがしている、いっそのこと、読める本、その、ノンジャンル、そう、今までも、そのようにしてやってきている、その、分類ということを決めていかないで、今、自分にとって読めるところの本、というか、読むことに、何か、意味を見出せる、そんなことかと、でも、本当に、実際に手に取って、活字の大きさとか、レイアウトとか、いろんなことを眺めて、そして、読めるのかどうか、それが分かってくるのかと、amazonで追加連絡してくる本も買っては見るが、でも、そのような本も、結局は、読み終える、そのことが出来ない、そう、そんなこと、実際のこと、その、読めるのかどうか、或いは、受け容れていくことが出来るのかどうか、そのこと、今の自分の状態、そのことによっても変わってくる、そう、それは、『親鸞入門』、それでよく分かった、半ば当たりに、日付が書き込んであった、前は此処までだったと、そう、今、どのような本が読めていくのか、そのこと、事前に分かるということでもないのかと、そんな気がする、どのようなことにしても、その、今、その本を読むことによって、多くのことを感じさせてくれる、喚起されるところの大きい、そんな本、それを読んでいく、そんなことになっていくと思う、機械的に、自動的に読めていく、そんなことはないんだと思う、そう、その絵本、何か、しっくりと来る、そんなところがある、猫の表情がなんともいえない、その存在感、それが十分に発揮されている、何もできないと思われている、でも、こんなことができるんだと、その、自己主張しているのか、そのことが自然なことであって、その、田舎の空間の中にあって、まあ、そんな猫も居るんだと、そう思わせる、特に、電線に並んだブラックバード、それを見つめている、その表情がなんともいい、また、おじいさんが、小舟から釣り糸を垂れている、そのこと、その図、それは、常々、人生の隠喩と感じているものであった。