『空中庭園』2

saikaku2006-01-31

もう一度、この映画のこと、結局は、思い込んでしまっていること、そのようなこと、その、家族ということ、自分の小さい頃、母親から愛されてはいなかったこと、そのように思い込んでいる、実際はそうではなかったと、でも、その回想の場面、それが入っているから、見ている観客には、そのことが理解できるとしても、その本人が、それに気づいていくということ、それが出来るのかどうか、昔のこと、そのことを思い返す、そのことが出来るのかどうか、そう、その疑問もある、でも、内観療法ということもあるから、まあ、昔のこと、その御恩、それを覚えているということも、思い出すということもあるのだろうと思う、そんなことを思う、思い込んでいくこと、だんだんと、それが膨らんでくる、その思い込みということを核として、他のことも、それに沿った解釈をしていくのだろうと、それに合う解釈をしていく、そして、その思い、それが固定化されていってしまう、そんなことになっていく、それを解きほぐす、そのようなこと、多分、心理療法とかいうのは、それを目的としているというか、でも、却って、その拘り、それをなくしてしまうことが、その、生き甲斐、それも失ってしまうことになると、その、思い込んでいるところのこと、そのことが、一般的に、その恨みということが、自分の生きる基盤となっていれば、そう、それを解きほぐすこと、そのことは、生きる意欲、変な言い方になってしまうが、それも、失わせてしまう、でも、その、新しい生き方、それに通じていくためには、そのことを通り抜けていかなくてはいけないことだと思う、まあ、映画の中では、血の雨が降るという、それほどの痛々しさというか、そんなことの表現だったのかと、でも、何か、そのようなことにおいても、そう、ちぐはぐ、そんな感じがしている、その、表現が、却って、あからさま、そのような気がする、むしろ、その、心理描写ということ、そのことは、もっと日常的な動作、そのことに中に秘められている、そんな気がする、普段のこと、そのようなことに中に、あるという、そんな気がする、そして、何か、一つ、象徴するようなもの、それが存在している、そのことから発せられてきているところのこと、そのようなものが存在している、そんなことに中に、その、心理ということ、人の心の動き、それが表現されていく、そんなアイロニー、それを思う、何か、その映画が意味しているところのこと、それは、別にあるのかもしれないが、でも、私自身が、どう感じているのかという、そのことでいいと思う、それも、思い込みの一つなのかもしれないが、溜め込まないで、自己を表現していくということに繋がっていけば、まあ、いいのではないかと思う。