『ライオンと魔女』

saikaku2006-02-03

何か、思想を打ち立てる、一つの理論を創造していく、そのようなことにしても、土台が必要だと思う、その、基盤としてのこと、自己を通してのこと、それが必要なことなんだと思う、西洋の思想を受け容れていく、誰には誰という、その権威者がいる、プラトンには誰、デカルトには誰、という、日本には、そんな権威者がいる、でも、そのような人間が、人間性として、何か、その、匹敵する思想を持っているのかというと、全然そうではない、そのようなところのこと、屹度、その、依存しているだけのことであって、自己を基盤とする、その個人としての思想を打ち立てていないという、そんなところがあると思う、その、日本人としての特性、単に、その、受け容れていくということ、表面的なこととして受け容れていく、自己から生まれてきたところのことではなくて、他者のものを借りている、そのようなところがある、表面的には、そのようなことに見られている、でも、そうなのだろうかと、ただ、外国の受け売りをしている、そんな人間もいる、他者の思想に依存している、そんな人間もいる、でも、何か、もう一段階下がったところ、そこに、日本人としての特性ということ、或いは、自己を通してのこと、そのところの意味が隠されているのではないかという、そんな気がしている、前、『ロスト・イン・トランスレーション』という映画を観た、その一場面で、東京の街へタクシーが進んでいく、そして、雑然とした広告の灯り、それが見えて来る、そんな場面があった、それがひどく印象的で、その、渾然としている、でも、何か、そこに美的なもの、そんなところを感じていた、そのようなこと、渾然一体というのか、一体ということでもないが、でも、全体として、纏まっているということでもなくて、でも、美しいと感じる、そんなこと、中空構造をしている、そのような言い方をする、何でも、その、器として受け容れていくことが出来るという、そんなことでもあるのかと、その、受け容れていくということにおいて、何でも受け容れていく、でも、それを地下1階で受け容れていく、それは、安易な権威者になっていってしまう、その思想が、自分にとってどのような意味を持っているのか、そのことまで降りていかずに、単に、その紹介者、それに留まってしまっている、でも、それを、更に地下深くで受け容れていくこと、何か、そのようなことが出来る、そんな特性を持っているのではないかという、そんな気がする、でも、やはり、卑近な距離で受け留めてしまう人間も出て来てしまうが、・・・イエスの思想、キリスト教としてのこと、そのことを、自己からのこととして、受け留め直していくところ、そのようなところに、ナルニア国が創造されていく、そのようなこと、問題は、自己から始めていくこと、そして、他者の思想も、自己にとってどのような意味を持っているのか、その観点から受け留め直していく、まあ、そのようなことだと思う。