『海を飛ぶ夢』

saikaku2006-02-05

基本的に、尊厳死ということは間違っている、何も出来ないということではなくて、その、四肢が動かない、そのような状況の中においても、その状況を知らせていくことによって、他者の心を動かしていくことが出来るという、そのようなことがある、人との関わりということを、十分に持っていくということがある、そのことが出来ている限りにおいて、生を止めるということは、してはいけないこと、その、人の生き方のこととして、尊厳死を選んでいくこと、或いは、ものを覚えていない、記憶することが出来なくなっても、そのままに生きていくこと、その、生きていくこと、その存在が、他者に影響を与えていくということがある限りにおいて、死を選ぶ、そのことはしてはいけないことなのだと思う、その、自分のこととして、その可能性ということ、何を表現できていくのか、その、表現することがある限りにおいて、他者のこと、そのことを受け容れていく、そして、そのことによって喚起されていくところのこと、或いは、イメージが生まれて来る、その限りにおいて、生きていくことの意味があると、そう思う、死について、死の向こう側、その世界のことがイメージできる、この現実に失望しているということ、自暴自棄になってしまうこと、でも、その、死ということが、何か、新しい世界、それをイメージさせる、そのような心の働き、それがある限りにおいては、生きていくことの意味があると思う、このように表現していくこと、自分自身にことについて言えば、そう、このように表現していくこと、詰まらないこととしても、このように言葉が生まれてくるということがある限りにおいて、いろんなことを受け容れていく、本を読んでいく、人の話を聞いていく、また、映画も観ていく、そのようなこと、受け容れていく、そして、何か、イメージが喚起されていく、それを表現していく、そのことができうる限りにおいて、生きていく意味があると思う、もし、その、イメージすることができない、死ということについても、それが何を齎すのか、それがどのようなものなのか、そう、そのようなことをイメージできない、そして、表現することもできない、そのような状況、植物人間、といっても、何か、植物も、イメージしているのではないかと思える、春が近づいてきているのを、季節の変化、それを感じているのではないかと思う、その、何もなくなっていく、何も感じなくなっていく、そんなとき、自然な形において、市ということを迎えていくことが出来るのではないかと思う、死ということを意識せず、その状況に這入っていく、だから、入滅とか、或いは、入寂、そのような言葉の方が相応しいのではないかと思う、そして、空海のように、今も生きているという、そう、そのようなことになっていくのだろうと思う。