『神の子どもたちはみな踊る』

saikaku2006-02-10

哲学者、日常的なことを、卑近なことをテーマにして書いている、そんな本を読む、でも、分からない、小難しく書いている、そんな気がする、何か、それも、結局は、頭でっかちな、論理で片付けていこうというのか、何か、出発点が違っているという、分かったふうに書いているだけに、何か、道に沿った鉄道の線路のように、並行して走っているようではありながら、いつの間にか、だんだんと逸れて行って、何処へ向かっているのか分からない、そんなことになってしまっている、まだ、キルケゴールとか、その文章のほうが、ズシリと重いものを感じることが出来る、そう、わかりやすく、その哲学をする年齢を下げているとか臨床哲学とか名のっていても、そんな本であっても、何か、違っているという、そんなところ、却って迎合しているようなところを、それを感じて、むしろ腹立たしく、そんな印象を持つ、何か、その、肝心なところのこと、いろいろな事件が起こっている、そのことについての、その、肝心なところのこと、それが表現されていない、そのような気がする、少年の事件、少女の事件、その背後にあるところのこと、そのことについての言明、それが為されていない、そんな気がする、勿論、そのようなこと、メディアが解けるはずもない、また、人の心のことと、そのように極小化していくことでも、多分、問題の根すら見えてこないのではないかと、そんな気もする、根源は、その、今の問題に引き続く、その根源は、11年前に起こったところのこと、まだ、オウムの問題、或いは、阪神大震災のこと、或いは、もっともっと遡れば、太平洋戦争のこと、そのところまで、そして、それが、靖国、その問題で露呈している、他国に批判されることに不快感を持ちながら、でも、何か、しこりが残っているということも感じる、解消できていないではないかと、そんな疼きを感じる、そのようなことなのだと思う、多分、哲学者には解けない、哲学者、という仮面を被っている限りにおいては、哲学という範疇にいる限りにおいては、解けない、殻に入っている限りにおいては、解けない、どうしていくことが出来るのかと、そう、一つの道を探り当てようと思う、或いは、素直に、或いは、誠実に、自己に従っていく、そのような方向性があるかと、別に、何かが見えているということでもないが、灯りが見えているということでもないが、でも、何かがあるという、そんな感じを、微かなものを持っている、地底が割れる、奈落の底を見る、再び、東海地方に地震が起こるのかと、或いは、直下型地震が起こるのかと、そのようなこと、そのとき、再起不能という、そのようなことにならない為に、多分、そのようなことが起こっても、復興するだろうという、そう、それも分からない、安易には、そうと思えない、そんな気もする。