『空海の風景』

saikaku2006-02-14

仏教を学んでいく、或いは、それを実践していくということ、そのことがある、そのとき、釈迦まで、釈迦の存在を超えない、というか、帰依していくというのか、そのこと、釈迦の教え、それを忠実に守っていく、それ以上に出ない、また、出るということも出来ないのかと、従っていく、そのような在り方、それが一つのこととしてある、尊師に従っていく、自分の判断を停止してまで、それに従っていくということが、そのようなことがある、でも、空海の場合、そのことが違っている、釈迦の存在、そのことを超えていくというのか、或いは、それとは違うところのこと、そのような方向性、それを持っているところ、それがある、新しい方向性、その道を進んで行くということ、道がなければ、自分で切り開いていくという、そのようなことを行なっていく、そのような気概、それを感じる、それだけ、その、自己を通してのこと、その表現する、或いは、実現していくところのもの、内側からのもの、そのことが大きくあったということなのだろうと思う、そのようなことを感じる、自分の存在としてのこと、自分という存在の意味、何処にあるのかという、その、自分ということを意識していく、その存在ということを、自分という範囲で捉えていこうとする、そのことには、どうしても無理が生じてしまう、その出発点、それを何処に置くのか、そのことによって変わってくる、安易に、人生の目標とか、そのようなことを立てる、それも感心しない、そのようなことも多分気休めに過ぎない、また、人のことを気に掛けていく、相手の存在ということ、非難しようと待ち構えている、それも、結局は、依存しているという、そんなこと、自分だけの目標を掲げても、その意味するところを常に問い続けていくことになる、また、他者のことに関わっていくことにしても、それは、依存性を深めていく、そんなこと、それになっていく、その間の道、そんなところを往くような、そのような気がしている、今の問題、その、庭仕事、休日にはそれを行っていこうと、その為のヒントを得るものとして、『趣味の園芸』、それを読んでいこうかと、さて、これを何処へ組み込んでいけばいいのかと、生活時間の中で、その、自然なこととして、何処へ組み込んでいけばいいのかと思う、何か、些細なこと、ホンに些細なことにして、どうにも落ち着きの悪い、そんなことになっている、何か、全体のことを組み替えていかなくてはいけないのかという、そんなふうにも感じる、さて、どのようなことになっていくのかと、そう、まだ、その、自分自身のこと、そのことについて、よく分かっていないところがあるのだと、そんなことを思う。