『当事者が語る大人のADHD』

saikaku2006-03-28

「話せば分かる」ということは、嘘とは言わないまでも、ストレートにそうだということもできない、話して分かること、或いは、相手の話を聞いていくこと、受け容れていくこと、そして、理解していくこと、そのようなことも、一つの特技、といっていいほどのことなんだと思う、話して分かってもらえる、そのようなことも、相手にとって、大きな特技、なんだと思う、その、往々にして、自分の意見、こうと思い込んでいるところのこと、そのことは換えない、その思い込みに自分の命が掛かっているかのように、それを換えていくこと、そのようなことはしない、或いは、そのような思い込んでいるところの考え、それが、自分の経験に裏打ちされているだけ、その考え方に依存しているということが言える、そんなことになっている、人間としてのこと、その、依存ということ、そのことが、どうにも避けられない、そんな問題になっている、何が大事なことなのだろうかと、そう、そのことを思う、自分の思い込んでいるところ、それに拘らないこと、或いは、その、生活習慣とか、或いは、慣習とか、そのようなこと、決まりきっているところのこと、疑いもしていないところのこと、そんなことに拘っている、そこに自分という人間の基盤があるかのような、そんなことになっている、でも、話して分かる、そのようなこともある、そのような努力、相手のことを受け容れていくこと、その努力、それもできるのだと、そんなところのこと、そのこと、それが、自分にとっても、気に掛かっている、何か、引っ掛かりを感じるところのこと、そうなんだと思う、話しても分からない、そのようなことを思うとき、その、話すことの意味を感じない、だから、もういいのではないかと、仕方のないことなのではないかと、そう、離れていく、ゲシュタルト、その詩に、そんな言葉もあったと、折り合えないこと、そうであれば仕方がないと、話し合っても分かり合えない、だから、仕方がないと、そう、確かに、そのようなこと、でも、何か、そのこと、簡単すぎないかと、そのように割り切る、でも、そこに余りがあるような、或いは、人間性ということを、その裾野を切り落としていくような、そんな気がしている、その、分かり合えないということであっても、そのことが、どのようなところのことを基盤にしているのか、どのようなことに依存をしているのか、そのことについての理解、そんなことは進めている、そう、決して、割り切って終わっているというわけでもない、そう、そんなことになっている、でも、何処までも理解をしていこうとしている、積極的に理解をしているということでもない、切り捨てているのでもなく、進んで理解しているのでもない、まあ、そんな中途半端なところ、そんなところの位置している、そのようなことでいいのではないかと、何か、その、縁、ということ、そんな言葉に慰めを見出すことになっている。