『囚われのチベットの少女』

saikaku2006-03-29

本を読むということに努力している、自分にフィットしているということ、そのような観点ではなくて、受け容れていくという、そのような意味において、努力している、その、本の世界、その中へ没頭していこうとしている、そして、少しずつ、そのようなことができているのではないかと、また、このようにタイプしている、自己を表現している、このようなことをしている、思うに、この二つのこと、連動しているのではないかと、外の世界、それを理解すること、本の世界、それを理解していくこと、今までにないような、今までには読まなかったような、そのような世界にまでその幅を広げている、そのようなことをしている、そのことと、その、内の世界、その世界のこと、どのようなことを感じているのか、そのことについて書いていこうとしている、表現していこうとしている、一つの文、そのことからヒントを得て、そして、長々と、或いは、ダラダラと、このように書いている、言葉を連ねている、人の話を聞くということにおいても、また、映画を観るということにおいても、同じことになっている、外の世界への理解、それを進めていくと同時に、内の世界、その、何が起こっているのか、そのことについての理解、それを深めている、そう、そんなこと、外の世界への横の広がりと、内の世界への縦の深まり、そのことが連動しているのではないかと、そのようなことを感じる、その、相手のことを非難していくこと、そのようなとき、その非難する言葉、それは、その言っている本人にも当てはまる、というか、自分自身のこと、それを非難している言葉なのだと、自戒しているのか居ないのか、そのことを分かっていっているのかどうなのか、多分、薄々は感じているのではないかと思う、そのようなこと、自分に向けられた非難の言葉、それはそのままのこととして受け留めていく、別に、そのことについて反論するということもない、そんなこともない、その、受け容れ方の問題として、或いは、聞き入れ方の問題として、ああ、言っている本人のこと、自分自身のことを言っているのだと、或いは、自分が非難されることを嫌って先制攻撃に出ていると、そのように聞いていく、そして、そのことは、人間関係におけることだけではなくて、国徳にとの関係ということにおいても、同じこと、他国のことを非難する、過去の歴史のことを等閑にしているとか、そのようなことを非難する、そう、でも、その問題は、多分、自国の隠された問題、そのような問題、それを抱えている、そんなことを示している、逆に言えば、相手のことを非難したくなったとき、相手を攻撃したくなったとき、そのことが自分に当てはまっているという、そのような疑問を自分自身へ投げかけてみること、立ち止まって、そうしてみる、そのことも必要なことなのだと思う。