『ねじまき鳥クロニクル』5

saikaku2006-04-26

もし人間に死ということがなければ、昔の王様が願っていたように、不老不死だったら、どうなっていたのだろう、死ぬということがなければ、おそらく、生きるということに意味について考えることもしなかっただろうと思う、十分に生きるとか、よりよく生きるとか、そんなことを考えることをしてこなかっただろうと思う、ということは、哲学というもの、それは生まれてこなかった、そのようなことに頭を悩ませることもなかった、意味を考える必要がなかった、そんなことになっていたと、ということは、それから引き続く、哲学から生まれてきたという、自然科学とか、或いは、他の学問系統も、それも興っては来なかった、そのようなことだったと思う、生きることを幸せにしていくとか、ゆとりのあるものにしていくとか、そのようなものにしていくこと、そんなことを考える、これも必要性がないという、そんなことになっていったと、そのようなこと、人間が死ぬということ、そのことがあるから、その、いろんな学問が起こってきたということがあるし、いろいろな発明品、技術開発、また、サービスの提供とか、経済活動も興って来ている、死ということ、そのことが根本的なこととして、あるという、そんなこと、でも、事態は逆なのかもしれないと、その、脳細胞が、というか、細胞の連繋ということがある、そして、その微細な回路に微弱な電流が流れ始める、そのようなことによって、考える、というか、何処から何だろうか、外界のことを感覚する、そんなことなのか、そして、記憶する、そして、思考するという段階なのかどうか、分からない、でも、その、細胞が活動を始める、そして、細胞の特化により、脳細胞の働きによって、考える、外界を変えていくという、そのようなことまで行き着く、その、細胞に電流が流れ始める、ということは、細胞が活動するという、そして、エネルギーを消費していく、ということは、細胞には寿命ができるという、死ということが、いつかは、そのエネルギーを遣い果たしてしまう、そして、活動を停止するということになるという、そんなことを運命付けられたと、考え始めたから死ということが齎されたと、尊風にも考えることができる、まあ、同時並行的にということへ逃げておく、そのようなことが興って来たと、井戸の底に這入って思考する、その場面、80ページほど続く、その、何か、自己の内へ、魂の内へ、その内の内へ降りていくこと、何か、その場面は、騒々しい周りの中で、自分自身も、垣根を作って読み降りていくような、そのような雰囲気の中で、じっと読み進んでいくような、そのような世界であったと思う、そのようなことも読書体験というのか、或いは、宗教体験というのか、そのようなことであったと、そして、多くのことを言葉にしなくてはいけないと、そんなことになっている。