『ねじまき鳥クロニクル』6

saikaku2006-04-27

白衣を着ている人がいる、いつも着ている人がいる、そのような人を見ると、話し掛けることを躊躇する、話し掛けられないと感じる、でも、そのことをその人自身が感じているのかどうか、多分感じてはいないと思う、白衣というものがどのような影響、雰囲気を醸し出しているものなのかどうか、そのことを分かっているようには思わない、その感じということもその白衣によって包み込まれているという、そんな感じがする、その、話し掛けられない、ということは、その人自身、相手の話を聞くということが苦手、或いは、できない、そんなことになっている、人の話を受け容れていく、そのようなことができない、でも、自分から話をしていく、ベラベラと喋ることはしていく、そう、とりとめもなく、そんなことをしていく、そのアンバランス、それを保っているのもまた白衣であると、そう思う、では、白衣を脱げば、人の話を聞くようになっていくのだろうかと、外面的なことの変化によって、内面的な変化が伴ってくる、そのようなことがいえるのだろうかと、白衣を脱げば人の話を聞くことができるようになる、ではなくて、人の話を聞くことができるように意識して集中していくこと、そのことを継続していくこと、そのようなことによって白衣を脱ぐという外面的な変化ということが伴ってくる、のか、どうなんだろうかと、人が変わっていくということ、外面的な変化によって、いかにも変わったと、そのように見える、でもその内実は変わっていなかったという、そのことの方が正しいのかと、人が変わっていくこと、どのようなことなのかと、その、もう一度、白衣を着るということ、そのことの意味、人の話を聞かないということ、その、防御していくこと、腕組みをする、そのような仕種もそう、人の話を受け留めない、そのような顕れ、もう一つ、その、自分の内には何もない、その、人の話を聞くことはできない、かといって、自分から話をする、そのことも十分にできない、という、その、内実の弱さを秘めている、そんなところもあるのではないかと、涸れた井戸を掘り返していくこと、自分の内側のこと、何もない、ではなくて、内側からこそ、その、溢れ出て来るところのこと、そのような井戸、それを掘り当てていくこと、そのような努力が必要とされているのではないかと思う、外面的な変化、それによって内実まで変化していくということはない、靖国参拝を止めたとしてところで、その本質的なところのことが変化しているということではない、単に止めたということ、それだけのこと、それを非難する中韓にしても、止めたからといって、それをそのままには受け留めない、内側にあるところのこと、それが変わっていない、それを替える為のこと、更に、その底にあるところのこと、そのところのもの、それを掘り当てていくことしか、その、変化していくということは起こらない。