『ねじまき鳥クロニクル』8

saikaku2006-04-29

ある資料集を見ていて、昔、十年ほどの前に、ある研修会の中で、ジャガイモとの対話というものを受けたことを思い出した、数十人ほどの人がいたかと思う、一人ひとりにジャガイモ、男爵、それが配られた、或いは、自分で選択したのかもしれない、そして、その、一個のジャガイモと対話をしていくという内容、先ず、何か始めたのか、握り締めてみる、その質感を感じてみるとか、そんなことから始めていくのかと、そして、その特徴を見ていく、そう、じっくりと見ていく、或いは、そのジャガイモに名前を付ける、そのようなところから、もう、一個のジャガイモではなくなってくる、そして、資料集では、出身地とか、或いは、好き嫌いとか、そのジャガイモの好き嫌い、そんなことを訊いていく、そう、そのようなこと、ジャガイモからの声、それを聴いていく、もう、それは、自分とそのジャガイモだけの、その世界、その中での対話、ということになっていく、ただ、ジャガイモというのは切っ掛け、自己との対話といってしまえば、そう、そのようなことなのかもしれないが、でも、重さのあるジャガイモの存在、それがなければ、その自己との対話ということも成立していないと、そんなところが不思議なところだと思う、そう、何か、自己を映し出す鏡の存在、そのようなことになっていると思う、その凸凹の形状が、また、自己の有り様に相応しいところなのかもしれないが、そして、暫く対話を続ける、どれだけの時間だったのだろうか、15分から20分、その程度だったのか、そして、さよならをする、そう、一人ひとり、別れを惜しみながら、ダンボールの中に返していく、そう、そして、暫くたって、掻き混ぜられ、もう一度並べられる、その中から、自分の手にしていた、そのジャガイモを探し出す、そんな課題が与えられる、そう、再会する、そのようなこと、そして、おおよそ、間違えることもなく、誰しも、その再会を果たすという、そんなこと、そう、そのような研修というか、それを受けた、そして、そのときの変化、もう、再会したそのジャガイモを、乱切りしてカレーの具にしようとか、そんなことはできそうもなくなっているという、そんな自分に気づくという、なんとも、そう、その、始めと終わりだけなら、滑稽でしかないという、そんなこと、でも、真実、そんなことになっているという、変化が起きているという、そんなことであった、と、その、対話をしていくこと、そして、一個のジャガイモであっても、自己を映す鏡の役割を担ったもの、その存在、それは、もう、単なるものではなくなって、その存在というものが、かけがえのない、そんなものに変身しているという、そのようなこと、いろんなこと、或いは、いろんなものが、そのような可能性ということを秘めている、そのようなことではないかと思う。