『リトル・ランナー』

saikaku2006-05-01

場面構成、場面の配列が巧くいっている映画だと思う、その流れがスムーズであって、飽きさせない、と言うか、時間の経過が短く感じられる、また、感情移入しやすい、そのようなことになっていると思う、いい映画だと思う、その、自己のこと、そのことを読んでいく、そのことについて考えていく、そのような時間として、今の時間がある、その、本を読んでいくこと、それも、その内容ということを理解していくこと、まあ、当たり前のことだが、そのようなこと、或いは、相手の話を聞いていくこと、それも、その内容ということを理解していく、でも、そのときには、往々にして、相手の話を聞く、そして、理解するということよりも、そのことに託けて、自分のことを話す、そんなことに変わってしまう、相手の話を聞いていくということよりも、自分のことを喋りたいという、そんなことに変じてしまう、そのようなことではなくて、徹底して、相手の話を傾聴していくということが、そのことが大事なことなんだと思う、そして、そのことによって受けたところのこと、その影響ということ、自己の内において生じているところの、その変容、それを今、このように書くということを通して、その変容を読みとっていく、そんなことをしている、だから、その、自己を読むということ、また、本を読むということ、また、相手の話を聞いていくということ、同じこととして、そう、同列のこととして扱っていく、そんなふうに考えていきたいと、そう思う、そのことは、自我ということの関わり、そのことを変えていくということも意味している、記憶できるということ、過去の経験ということ、そのことが記憶されている、自分は、こんなことを経験してきたんだという、そのことをいつまでも保持している、そう、そんなこと、そのことが自我の証ということであるように、自我の拡大ということ、それがいかにも、自分の存在ということを固定化させていくもののように、そのように感じられている、そのところのこと、正していくべきところのこと、そう思う、何か、その、一つのこと、ランナーとして、走るということに徹していくということもできる、そう、そのようなことによって、自己に通じていく、そのようなことになっていくのだろうと思う、何故、そのようなことに一生懸命になっているのか、そのことを言葉で説明することは、多分、できない、或いは、適当な言葉になってしまうと思う、何か、その、一つのことに徹していく、自己を表現できていくところのこととして、一つのこと、それに徹していくこと、まあ、そのことが必要なことなんだと思う、自我というもの、その関わり、それを薄っぺらいものにしていくこと、無我とまではいかなくても、だんだんと薄いものにしていくこと、そのようなことができるのではないかと思う。