『寸志』

saikaku2006-05-08

この日記を続けていくとすれば、この時間に書いていくということになる、早朝の時間には、筆記していくということになる、少しずつのこと、今までのこと、昨日読んだ本のこと、その他諸々のことについては、早朝に書いていくという、そのようなことになっていくと思う、今、このように書いていくことの意味、纒としての意味があるのかと思う、この時間、少しの空白の時間としてある、仕事を始めていくための準備のときとしての意味があると思う、そんなことになっていくと思う、その、筆記することは歩いていくことに似ている、このようにPCへタイプしていくことは、自転車に乗っていくようなことに似ている、自転車でも結構周りの風景を見ているようなところが在るが、でも、歩くということに比べれば、その、見落としているところのことも多くあると感じる、実際歩くということの方が、格段に多くのこと、多くの物を見ている、そんなことになっていると思う、歩くということを始めていくと同時に、筆記するということも始めていく、そんなことになっていくと思う、そのようなことでいいと思う、とすれば、このように書いていることの意味、その、今まで書いてきたこと、このことを中断してしまうことも、何故か踏ん切りがつかない、また、このように書いてしまっている、まあ、このようなこともいいのかと、もう一度、その筆記した内容について、思い返していくこと、そのことがあると思う、その、頭の働き方が、脳の機能ということが違っているのだと思う、一つのことに集中していくのかどうか、或いは、多角的に物事を処理していくことが出来るのかどうか、そのような違いがあると思う、一つのこと、先ず、目の前のこと、そのことを片付けていく、そして、その次に何をしていくのかという、そのことを逐次的にというか、順番を決めていくことによって、或いは、効率的なことだと思い込んでいるところも在るのかと、そう、そのような処理の仕方をしている、一方、多角的に、というのは、同時並行的に物事を処理していく、ウィンドウズ的な、そんな処理の仕方ということになっていくのかと、或いは、料理をするということにおいても、幾種類もの料理を並行してこなしていく、でも、まあ、時々はやっていることを忘れて、鍋を焦げ付かせてしまっているが、でも、いろんなことができると、目的地へ行くのに、その、最短距離を行こうとするのか、その、一つだけの所では勿体無いと、その近くのところへも逍遥しようかと、そのように考えていくのか、そう、そのような違い、どちらがいいのかとか、そんなことではなくて、ただ、脳の働き方の違いということが在ると思う、そんなことになっていると思う、ただ、そうなっているということなんだと思う。