『哲学の最前線』

saikaku2006-05-20

如何にして相手のことを理解していくのか、或いは、異文化理解を進めていくのか、そのようなこともそう、相手のことを理解する、そのとき、どうしても視点は、相手のことへ、外へ外へと向いていく、相手の話をよく聞いていく、その言っているところのことが正しいと仮定していく、とか、それがどう理解できるのかとか、そこには、自分の主観、先入見というものが含まれているとか、まあ、そんなことは当たり前のことであって、そう、どうしても、相手のことを理解していくということには、自分ということ、それも含まれてしまっている、そう、どうしてもそうなってしまう、そして、そのことを、次に、排除していくということ、純粋な相手理解、或いは、高濃度の異文化理解とか、そんな幻想にとり憑かれてしまう、そう、相手の話を聞いていく、確かに、その話の内容ということを理解していくという、そんなことをしている、どのようなことなのか、家族構成はどうなのか、どんな状態にあるのか、どのような歴史を持っているのかとか、そんなこと、いろんなことが錯綜しながらも、雑多なこと、多様なことを聞いていく、そう、そのような情報を得ていく、そして、外から聞いたところのことは、あくまでも情報としてのことであって、ただヒントとしてのことであって、そのようなことから、どのような地図を描いていくのか、そのこと、実際にどのようなことになっているのかという、そのことは、自分が創造していくところのこと、或いは、想像していくところのこと、そんなことであると思う、自然を相手にしていくという場合においても、観察すること、そのことによって得られる情報というのは、ホンの少しのことであって、そんなことであって、その僅かな情報、ヒントから、自然の構造、法則、それを推理していくという、そんなことになっていく、そのこと、情報を得るということを行いながらも、それと並行して、自己の内において、どのようなことになっているのか、そのことを構築していく作業、それが相手のことを理解していくことになっていくと思う、相手へ向かっている、外へ外へと向かっている、相手の懐へ入っていくという、そのことは幻想であって、不可能なことであると思う、できることといえば、逆に、自己の内へ内へと這入って行くこと、そのことだと思う、自己を理解していくこと、情報を得る、そのことはできる、そして、そのことを、新情報を加味しながら、どんなことになっているのか、自己は、どのような変容を受けているのか、そのことを確かめていく、表現していくという、そのことが、結局は、相手理解、それに繋がっていくと思う、相手のことを理解する、異文化を理解する、自然を理解する、そのことは、自己を理解するということを同義語であると思う。