『ナゲキバト』

saikaku2006-05-23

自然ということを理解していくことができるのだろうかと、確かに法則というものが、あると、そう思う、でも、それも確かなことなのかと、その、子どもに行う心理テストで、ぐちゃっぐちゃな線を描いて、その中から、何か形象を見つけ出していくという、そんなものがある、それでどうなのかという、何が見えたのか、それをとりあげていくのか、また、ロールシャッハもある、その図柄が、何に見えるのか、どのような見え方をするのか、そのことをとりあげていく、以前、そのテストを受けたとき、色の付いた図柄の中央に釈迦の坐っている姿が見えたことを思い出す、そんなこともあった、そう、自然というもの、その、混沌としているもの、また、その図柄、時間と共に変化している、そんなことなのではないかと、そして、あるとき、それがどのようなものに見えるのか、そのこと、何か、形のあるものとして、一つの纏まりのあるものとして見える、意味のあるものとして見える、そのようなことをとりあげていくという、それが一つの形として、法則というようなことになっていくのではないかという、そんなことを感じる、そう、問題は、その、個人としてのこと、そのとき、どのようなものが見えているのかという、何か、その、客観的ということ、純粋に客観的ということが、そのことがあるのかどうか、客観的という言葉、何か、惑わす、そのようなことがあると思わせる、でも、在るのかどうか、そう、疑問に思う、その、主観の、むしろ、主観的であるということを問い詰めていった先に、その、独自性ということを極めていったところに、その、客観というものがあるような、そんな気がする、何か、今、このようなことを書いていて、その、全然知らないが、読んだこともないが、西田幾多郎の名を思い出した、その、いい本に出逢うこと、そのことも本当に嬉しいことだと思う、何気なく手にした本が、そのようなことであるとき、そう、もっと嬉しいことだと感じる、この本もそう、そして、その底流に、キリスト教の教え、それがあるというところ、生活のあり方、その根本的なところに、そのようなことが染み付いているということ、そう、それも何か、惹き付けられるところになっている、依存性の強いものほど、他者に対する批判も大きい、そんなことからいえば、異端審問とか、迫害とか、そのようなこと、或いは、イスラムへの攻撃とか、そのようなことを見れば、その、キリスト教の内部のこと、守ろうとしている権威、そのようなことも、何か、大きな問題が含まれているような気がする、『ダビンチ・コード』で慌てることもない、非難することもない、でも、そのようなこと、何か、大きな問題を抱えている、そんな気がする、暫く、その世界に這入って行く。