『キリスト教』

saikaku2006-05-24

自分の生き方を考えていく、生きることの意味を考えていく、そのことなのだろうと思う、死ということについて、おそらく、最後の審判がある、そのようなことがある、或いは、閻魔様の採決、それがある、その前に臨んで、どのような生き方をしてきたのか、或いは、臨死体験ということも、そのようなことを物語っているのかと、その、どのような生き方をしてきたのかと、生きる意味ということを掴んだのかという、そのことを問われる、多分、自殺するということ、それについては、最下位の判決になるのだろうと思う、生きる意味を問う、そのことを自らが放棄したということにおいて、或いは、即、人間界へ差し戻されるのかもしれないが、そのようなことになっていく、一つには、カインとアベル、その関係から始まっている、或いは、知恵を持つという、原罪が、その根底にあるのかもしれないが、その、相手のことを羨む、或いは、相手のことを非難する、そのことも、結局は、その、自分の存在ということを認めて欲しいという、そのことに発している、その、相手に対して、その、自分の存在を認めて欲しいとするところのことも、結局は、相手に依存しているという、そう、問題は、依存性ということ、それが、もうどうしようもなく、固定化されてしまっている、人の血を欲しがる、それに依存している、そして、更に、その相手をも、自分と同じものに変えてしまう、そのようなこと、依存性の強い、そのようなもの、それを、多分、悪魔と呼ぶのだと、そのように思う、その悪魔に対してのこと、自分の内にも、多分、そのようなところがあって、そのことをどう克服していくのかという、人に依存していくということではなくて、自己のところのこと、それに基づいていく、そのような生き方を実践していくという、そんなところに、その、生きることの意味、それがあるのだと思う、そして、人のこと、そのことを非難しないということ、もう一度、他者を非難するということは、自分自身の内に、同じものを抱えている、そのことを、多分、半分意識している、そして、自分自身の、その弱点と思い込んでいるところのこと、そのことを隠蔽していくために、その、先制攻撃、それを行っていく、そう、人のことを責める、或いは、目には目を、と、肉親を殺された家族が、容疑者に極刑をとか、そう言う、そして、マスコミは、それを報道する、分かるというように、でも、それも、多分、同じ間違いを犯している、そう、そのようなことではないのだと思う、ただ、そのようなとき、人からは辱めを受ける、或いは、非難される、暴力を受ける、そのようなところにおいては、ただ、離れて行く、そのようなこと、それができるのかどうか、そう、そのところのこと、判断されるところではないかと思う、しかし、積極的な生き方、それももちろんある。