『サンセットメモリー』

saikaku2006-07-06

他者の世界を理解する、そのことだけでも十分に異文化理解ということに繋がっていくと思う、同じようなことだと思う、その、PDDの子供の世界ということを理解していく、どのようなことになっているのかと、その、単に気に掛かる、或いは、問題行動をする、そのようなことに目が行ってしまって、どのような理解、判断をしているのか、どのように外からの情報を処理しているのか、そのようなことについて私自身が理解していくこと、それが必要なんだと思う、ただ、自分の考えているところのこと、自分が判断するところのこと、それが常識的なこと、誰しもそうなんだという前提が、極めて強固に作られている、そう、何の意識もなくて、自分と同じなのだと、そのように思い込んでしまっている、前を走っている車を見て、自分と同じ目的地へ行こうとしていると、自然に思い込んでいく、脇へ逸れていくのを怪訝に思ってしまっている、そんなところがある、一つには、他者を理解していくということが、その、自分自身の思い込み、常識なんだとして、誰しも同じなんだとして思い込んでいるところのこと、それが、ただ、自分のことだけでしかないと、そのことに気づかせてくれる、そのところの、他者理解ということを自己理解が重なっている、共通の目的を持っているということを感じる、人の言うことを同時に並列に修理できない、顔の表情を見て、また、身振りを見て、その話を聞いて、というように、同時には処理出来ていかないこと、そんなところの困難さ、それを持っているということ、でも、一つのことに集中して関心を持ち記録を始める、そのようなことも行う、そのような世界を持っていること、それを理解していくことが自己理解も助けていく、そんなことになっていく、その、思い込みをしているということ、それは、自分だけのことではないということ、独りではないということ、自分が孤立しているわけではない、自分は常識の世界に居るということ、その安心感、繋がっているという安心感、そんなこととも関連していると思う、そう、不幸に見舞われたとき、何故自分だけがという、そのように感じ、否認し、怒りを覚えるということにも関係している、しかし、そのところのこと、自分が常識的な世界に居る、他者と共通している世界に居る、そう思い込んでいるところのこと、そのことを逆転していく、自分自身は独自の世界にいる、自分だけの世界に居る、或いは、自分だけの世界ということを構築していくという、そのように発想を換えていくところから、何か、別の生き方が始まっていくのではないかという、そんなことを思う、別の、というか、自分自身の生き方が始まっていく、そう思える。