『自閉症の子どもたち』2

saikaku2006-08-24

結局は、パタン化していくことに問題の根があるのではないかと思う、午前中には読む、午後は書くとか、そのように決めてしまうこと、そのことに窮屈さを感じてしまう、そのようなことではないかと、何かルールが必要とか、そのように思い込んでいるところもある、そう、何か、拠って立つ基盤がないと不安になってしまうという心理も働く、自分という人間はどのようなものなのかという問いに答える為には、何か、他のものについての位置で示していくことが、身についている、座標軸を必要としている、それも確りとしているように見える軸、それを必要としている、そのようなところがある、でも、ただ、自分だけのこととして、自分ということを意識するということではなくて、ただ、自分の有り様として、自分の存在ということを認めるということもなくて、ただ、自己を表現するということだけにおいて、そのことにおいて自己というところのことがある、そんなこと、自分というのはどのような人間性を持っているのか、それは、ただ、自己の内から、どのように表現していくことができるのか、その動的な意味においてのみ答えていくことが出来ると思う、その為には、他者のことを理解していくことが、他者からの表現、それを理解していくことにおいて、受け留めていく過程において、自己の内にどのような変化、反応が生じているのか、何が起こっているのか、そして、その生起されているところのことを表現していくこと、そんなことになっていくと思う、その、自由に、自己の内において起こっているところのこと、それを表現していく為には、囚われない、そのようなこと、枠付けということをもっと広くしていくことがその条件になっていくのではないかと思う、そのようなことを思う、午前午後、その区分けをしない、受け容れていくこと、そして、表現していくこと、ただ、そのことを繰り返していく、よく、また、広く受け容れていくためには、十分に表現していくことが必要条件であり、また、よく表現していく為には、十分に読んでいくことが、受け容れていくことが条件でもある、そのような繰り返しが、そのサイクルが巧く機能していけばいいと思う、そう、そんなこと、そのようなことであれば、よく生きられるのではないかと思う、そのサイクルに自分というものが拡散していくという、また、消失していくという、そんなことになっていくのではないかと、或いは、このような生き方は、そう、緊張を強いられる、そのようなことでもあると、パタン化されている、マニュアル化されている、そのことの方がよっぽど楽なことには違いない。