『プラハ!』

saikaku2006-08-30

どのように行動していけばいいのかを考えていく、同じようなことではなくて今までにないようなところのこと、そんな生き方ができないものかと考えていく、その為には、自己のことについて識っていくことと同時に、相手のことについても知っていくための関係性、或いは、縁起、それを大事にしていくということがある、そのような成り立ちなのだろうと思う、その、今、一方的な、或いは、相手によって自分の立場というものを認めてもらうという、逆相にある風潮、相手のことを知ることによって自己を識るということではなくて、相手にただ自己のことを知ってもらうという傾向へ流れてしまっている、そのようなことになってしまっている、嘆いていても仕方のないことなので、そのような流れから外れていくところに、自分の生き方を求めていくということになっていくと思う、1968年、「プラハの春」という時があった、その、解放されたような気分が高揚したときがあった、でも、それを阻む勢力もあった、その、解放されることを怖れる者がいた、或いは、そのような国があった、でも、今もある、自由であることを怖れる者がいる、或いは、自分から、そのようなところへ身を置く者も居る、縛られていることの方が、何か、整然としていると見做す者がいる、自由になることを怖れている者がいる、その、混沌としている状態を怖れる者がいる、でも、結局は、その、整然としていることからは新しいことは生まれてこない、混沌としているところのこと、融合していく可能性のあ状態から、今までにないことが生まれて来る、そのようなことなのだと思う、でも、問題葉、新しいことが常にいいものだとは限らないこともある、そう、そのようなこともある、でも、新しいもの、そこに可能性が含まれているということもある、そう、そのようなところのこと、何ができるのか、どんなことになっていくのか、先のことを観ていく、予測していくことができるのかどうか、そう、そのことが大事なことなんだと思う、そんなことになっていくのではないかと思う、おそらくは、他者の問題ではなくて、非難していくことではなくて、自分自身の問題なのだろうと思う、そのようなところのことなのだと思う、そして、その、人間関係において、そのところにおいて、一言でも多く、本当のところのことを言葉にしていくことによって、少しずつのことであっても、楽しみとしてのことも生まれてくるのであろうし、そう、何かが変わっていくということになっていく、まあ、道は遠いという気がしている、そのような気がしている、でも、愉しみとしてのことはあると思う。