『アナトールさんのロバ』

saikaku2006-09-10

比叡山坂本に残る石積みは穴太衆と言われた人たちが造ったものらしい、それは、石を加工することなく積み上げていくというもので、その遺構が随所に見られる、その石積みを見てから、他の場所での石の積み方が気になってきている、どのように積み上げているのかということが気になってきている、その、石を加工しないで積み上げていくということは、一つひとつの石の構造、外形ということだけではなくて、その内部の構造というか、その強度というか、そのようなことまで観ていくことが、そして、それをどのように配置していくのか、頭の中でグルグルといとも軽々と回転させていたに違いないと思う、そして、積み上げていくというか、組み合わせていく、そんなことを行っていく、その、石の形が一つの決まっている、或いは、同じ形をしていれば、勿論積み上げていきやすい、今は、そのようなことになっている、整然と積み上げられている、でも、そのようなことは面白くない、機械的なことなんだと思う、また、石を削っていく、そして、形を無理に合わせていくということも、余り面白くないことだと思う、できて当然ということになる、そのようなことではなくて、自然にあるままのこと、その形状において、組み合わさっていく、そのようなところに、その全体としての面白み、それが感じられる、人間についても、その性格ということ、それが自然なこととして発達していくこと、強制されるとか、鋳型に填められるということではなくて、その本来持っているところのこと、秘めているところのことが成長してくると言う、そのようなこと、そして、そのような形において人間関係ということが積み上げれられていくということが、そう、望ましいのではないかという気がする、勿論、そのためには、性格を歪なものにするということではなくて、そのままの状態として、その本来のところ、それをよく観ていくこと、そのことが欠かせない、変形するということではなくて、そのままのこととして、組み合わせていくこと、そのようなことができていけば、何か、その、決まった形において組み合わされていくことよりも、より強靭な関係性、絆といったところのことが創られていくのではないかと思う、そのような気がする、何故か、今、その、人間の力ということが、自然の形状を押し潰してでも、その望むところのことを押し通していこうとしている、そう、或いは、人間性ということまで、そのような力が及んできているという状況にあるのではないかと、そんなことを思う、あえて、その、自然なところのこと、そのところから始めていくことができるのではないかと、自然に帰るという、老子だったのか、そのようなところに居る。