『宇宙の果てをみると宇宙の始まりがみえる』 2

saikaku2006-09-12

宇宙がどうなっているのか、どのように誕生して、今、どのような構造をしていて、これからどうなっていくのかということ、そのことについて、もうこれ以外にはないという形で解明されるということが出来るのだろうかと、その真理が分かる、そのようなことになるのだろうかと、歴史ということについて、このように歴史は起こったということが、もうこれ以外にはないという形で言い表されるということが出来るのだろうかと、昔、なんと言ったのか、唯物史観だったか、そんなことがあった、今もあるのか、歴史の法則ということ、これに従って歴史は進展していくという考え方があった、その答が決まってしまっているような、行き着くところが先にあった、それに理論付けしているような、そんなものだったと、そう、何か、これ!というように、解明される、そんなところのことが出来るのだろうかと、ニュートン力学が出てきたときには、もう自然の動きについては、分かったという状況だったのかもしれない、それで全て説明できるという状況だったのではないかと思う、自然の動きについて機械論的に説明できるという気持ちで居たのではないかと思う、そう、根本的なところのことは南なのだろうかと、唯物史観、そのものが表明されたとき、何か、その考え方、そのものへの反動、そうはなるものかという反感、それが、歴史の流れという方向を変化させたということもあるのではないかと思う、ミクロの自然を観察する、その行為自体が、対象の状態に影響を与えていくということが起こる、そのようなこと、人間が考える、その行為自体が、もう対象としているもの状況を変えてしまっているという、そんなことも起こっているのかと、宇宙について考えている、そして、そのことについて表現していくという、そのことが、宇宙そのもののあり方ということを変化させている、という、どうなんだろうかと、そのようなことからいえば、人間のことを含めての、その全体としてのこと、どう把握していくことが出来るのか、そのこと自体も分からないが、想像も出来ないが、そのようなことでしか、その、理解していくということが出来ないのではないかという、そんな気がする、その、考え続けていくこと、或いは、表現し続けていくこと、新しい事態に応じて、表現し続けていくこと、そんなことしかできないのではないかという気がしている、考える、新しい理論が生まれるとき、自然は、宇宙は、更に新しい状況を創造しているという、そのようなことになっている、また、歴史ということにおいても、過去のこと、定まったことではなくて、現在に続くところのこととして、過去においても、新しい状況が生まれている、そんなことがいえるのではないかと思う。