『三年坂 火の夢』

saikaku2006-09-13

規則がどうとか言うことの前に、先ず、相手の言い分を聞いていくことが大事なことであるのに、どうしても、その、自分の見ているところのこと、そのことが初めに出て来る、相手の内面ということを受け容れていくことが、先ず、大事なことなのに、初めには、外見のことについて指摘するということになってしまう、そのようなことが起こる、そして、何か、だんだんといがみ合うということへ進んでいく、普通のことのようになっていってしまう、どうして相手のことを受け容れていくことができないのかと、外見の、その見たままのことを指摘してしまうのかと、そう、その場面では、自分にはこうなければならないという、鋳型或いはパタン化された形がある、その、自分の思い込み、それから外れているという、それに合致していないという、その判断がある、そして、その、一方的なこととして、自分の考えていること、自分の見方を押し付けていく、そんなことになっていく、相手の話を聞くということなんてしない、ただ、自分の今の、というか、多分過去からも、その、変わっていないところのこと、思い込んでいるところのこと、固執しているところのこと、それがあるのだろうと思う、たとえ、そのことが幻想的なことであっても、というか、共同幻想に近いことなのだろうと思う、その人の中では、自分だけではなくてみんながそう思っている、と思い込んでいるところがあるのだと思う、実際には、みんなそう思っていなくても、自分の見方は常識的なことなんだという、共通していることなんだという、そんな思い込みがあるのだと思う、そして、そのような思い込みに自分の存在が支えられているというところもあるのだと思う、子供はよく次のように言う、「みんな、そう」と、でも、そう言っても、その「みんな」というのは誰?と訊けば、数えるほどの、片手でも余ってしまうほどの、そんな少人数でしかないことが多い、数人の名前を挙げるだけで終わってしまう、そのようなこと、たとえ数人であっても、それが広がって、すべてみんなということになってしまう、自分独りだけではなくて、みんながそうなんだということになってしまう、そして、安心するのかどうか、或いは、その、集団に含まれていることに存在感を持つのかどうか、そう、それは、幻想的なことなんだと思う、でも、そのような中で生きていけるということは、ある意味、幸せなことなのかもしれない、いつかは崩れてしまうとしても、でも、そのような人間が、仕事場では多いということに気づかされる、どうしようもないことかもしれないが。