『感動をつくれますか?』

saikaku2006-09-22

結局、人が動くということは、周りの人の動き、他者の動き、それに影響されていることが多い、こうすべきだと指摘しても動かない、でも、指示されなくても、周りの人が動いている、それぞれが自分の活動をしているということを見ている、そのことが刺激となって動き始めていく、まあ、そんなことが多い、お尻に火がつくというよりも、何かしら、自分もそうしなければならないという、そんなすうに促されていく、でも、このことは仕方のないことではなくて、これでいいのだと思う、人の動きから、自分もそうしなければならないという、自分でそう感じるところのもの、言葉で言われるよりも、内部でそう感じるところのものを持っている、そのようなことなのだと思う、そのような直感力、そこへ働き掛けていく、といっても人為的なこととしてではなくて、自然なこととして、そう、そのようなところがあることを信じているというか、というよりも、先ず、自分自身がそうし始めていく、そんなことなのだろうと思う、今、そのようなことからいえば、だんだんと、それぞれの人が動き始めている、回り始めている、そんな感じを受ける、まあ、いいのではないかと思う、自分の持つ、その、直感力、或いは、直観力、それを信じていくということになっていると思う、そのようなことによって変わっていくということになっていく、基本的に、根本的に、その直観力が信じられない、昔のことの方がよかったと、派閥のある方がよかったとか、そんなことになっていけば、そう、まあ、潰れていく、人間関係に依存しすぎていること、そのようなことがあると、どうしても、自分ということよりも、相手のことを気遣うというより、自分から始めていくことができないというだけのことであって、その、関係性に埋没していく、そんなことになっていく、そして、ムラを形成していくということに、まあ、余り、今度の人には期待しない、何か、前々からの、また、前からの遺恨を持っていそうな気がする、拘りを持っていそうな気がする、そのようなことが基にあるような、もっと自由なところのこと、それがなさそうに思う、でも、人は動いていく、社会もう動いていく、そのような状況になっている、或いは、自分自身のこと、期待するとか、そのようなことではなくて、先ず、もう、自分から始めていく、隗より始めていく、そんなことになっていく、それでいいと思う、受け容れて続けていくこと、そして、表現し続けていくこと、その両者のこと、そのバランスをとっていくこと、そのことに注意を払っていく、今は、そのようなことによって、まあ、自分自身においても、巧く回転しているのではないかと思える。