『生命の海 <空海>』

saikaku2006-09-27

また、空海のことへ戻って来ている、密教のことへ戻って来ている、そして、一冊の本の題名の下に、このように書いていこうとしている、このスタイルということも、今までは全然関係のないことを書いてきたような、そんなことだったが、これからは、もう少し、その題名に関係の在るところのこと、それを書いていくこともできる、或いは、そのような方向へ進んできているのかと、そんなことを思う、まあ、そのようなことになっていたのだろうと思う、その、今一度、密教ということを読み込んでいる、そんなことの中で、その、異質なところのことだけではなくて、あらゆるもの、そういってもいい、空海の時代なら、インド、或いは、中国までの世界だったのだろうと思う、でも、今なら、全世界のこと、東洋西洋という分け方も狭い、もっと全地球的なこと、或いは、全宇宙的なことまで含めて、その、全体のこと、そのことを統合していくという、そのようなことを根本的なこととして、目的としている、密教の目標としているところなんだということを再認識させられている、その、嫌なこと、嫌な人間、何か、反りが合わない、そんな人間を排除していくということをしていく、関係のないこととして排除していくという感覚があった、でも、そのようなことではなくて、どのような人の中にも、その、本質的なところのこと、それを観ていくという、そんなところの心眼を持っていく。備えていく、そのようなこと、そして、受け容れていくこと、人それぞれの本質的なところには、その、自分を変えていく、その人間性、その中に潜んでいる仏性を顕していくという、そんな望みを抱いている、そんなところがある、その、人の、些細な変化ということに期待していくということもある、そう、何か、全体的なこととSして、その、表面的なことで関係ないとして排除してしまうのではなくて、受け容れていく、そして、その全体として、自己の内において、或いは、もっと下位のレベルにおいて統合していくということ、そんなことが出来るのではないかと思う、或いは、プラトンにしても、アリストテレス、その時代からのこと、また、キリスト教ということにおいても、その人間性ということに関して、大風呂敷を広げ過ぎなのかもしれないが、統合していくことが出来るのではないかと思う、もっともっと広げていくこと、そして、全体のこととして、全全体のこととして、それを自己の内において、そう、あくまでも、自己の内において統合していく、そのようなことが出来ていくのではないかという、一人の生き方として、或いは、人間関係の在り方として、或いは、自然の、その、森羅万象についてのこと、そのようなこと、全体のこと、それを、ただ、個人的な感情ということで排除していくのではなくて、統合していくという、まあ、余りにも、稀有壮大。