『生命の海 <空海>』3

saikaku2006-09-29

仏性ということをどう考えるのか、その、植物にしても、動物にしても、或いは、星にしても、石にしても、あらゆるもの、その、何かを秘めているということ、そして、それを顕す、花が咲くということにしても、その、今は、遺伝子の発現ということになるのかもしれないが、その、内に持っているところのこと、変化する、或いは、顕現する、そんなところの種子を秘めている、そして、それが発現化してくるという、そのようなこと、その秘められているところのこと、そのことを仏性というのではないかと、そして、今、このように書いていくこと、その、あらゆることを受け容れていくということも、その、外へ向けてのことではなくて、そう、内、自己についてのこと、自己を通して、その、浮かんで来るところのこと、或いは、イメージ、そして、それに伴うところの言葉、それを受け容れていく、そう、内からのこと、それを全て受け容れていくということなのではないかと、そして、それを表現していく、言葉として、繰り返しの言葉として、そのことを文章化していく、或いは、タイプしていくというだけの、そのようなこと、だから、これからのこととして、どれだけのことを、自己を通して顕れて来るところのことを表現していけるのか、そのようなことになっている、人間としてのこと、何か、まあ、今においては、最高の、そのようなこと、微細なことに至るまで、表現していくことができるという、言葉ということ、言語ということだけではなくて、数式、それによっても表現していくことができるということがある、そんなこともある、多くのこと、その、出来る限り多くのこと、その、表現し尽くすということは、多分ないのだろうと、その、50億年先、それまで続いていくのではないかと思う、57億年先、弥勒菩薩が、というのは、どのような符号なのだろうかと不思議に思う、そのようなこと、そして、他のこと、一輪の花、或いは、風の動き、そんなことにしても、そこには、或いは、底には、何かが、それぞれの秘めているところのことが顕れているという、そして、そのことに感応されて、自己においても、何か、顕れて来るという、そんな連鎖に支えられているということが、或いは、そのようなところが、救済という、そんなことに転じていくのではないかと思う、助けるということではなくて、その、あくまで、それぞれの秘めている仏性、その発現に寄与していくところのこと、そのことは、自己についてのこと、あくまでも、自分自身のあり方、そのことから始まる、そう、そのことから始まっていく、自利、その、発現のあり方が影響し合っていくところに、救済というも、利他という行為、それが起こって来ると思う。