『空海曼荼羅』

saikaku2006-10-04

幼稚園児の頃、三輪車に乗り始めた、三輪車というものがとりわけ好きだったと思う、初めての乗り物ということだったと思う、そして、それに乗っていけば、世界の何処へでも行けるのではないかという、そんな幻想も持っていた、そのようなことだった、小学生のこと、今はもうは開発されてしまってみる影もなくなってしまっているが、近くに山があった、気軽に行ける山だった、そこを渉猟していたことを思い出す、或いは、その中の少し窪んだ所へ自分だけの基地を設けていた、或いは、池の傍にも自分だけの場所を設けていたことを思い出す、でも、今はもう団地になってしまっている、家が立ち並んでしまっている、何処が何処だったのか見当もつかない、そんなことになってしまっている、でも、そのとき山の中を歩いていたときの感覚、それは残っているのではないかと思う、実際の場所は消えてしまったとしても、その感覚は残っているように思う、本を読んでいくということも、その、人の話を聞いていくことも、同じようなことに思える、本を読む、著者の考えているところのことを知っていく、大事なところのことは、そのことをそのままのこととして受け留めていくのではなくて、そのことからどれだけ自分のこととして展開していくことができるのか、自分からのこととして発展させていくことができるのか、そのようなことなんだと思う、人の話を聞いていく、そのことについて批判的なことではなくて、分析的なことではなくて、その内容について、自分からのこととして、どのように次の段階へ、或いは、新しい視点へ移動させていくことができるのか、そのようなところに意味があるのだと思う、また、そのようなことが期待される、そのようなことが予感できる、そのような本或いは人の話、それを受け容れていくということになっていく、問題は、自分からのこととしてあると思う、そんなこととしてあると思う、受け容れていくことによって、自己からのこと、その、如何に自己を発現化させていくことが出来るのかどうか、また、そのことが相手に対してどのような影響を与えていくことになるのか、そのようなところに自分の生き方があるのではないかと思う、その、外からのこと、そして、内に残っているところのこと、まだ、山道を渉猟しているところのこと、そのことの統合ということになっていくのではないかと思う、物理の統一理論のように、だんだんと自己の内にあるところのことを統合していくという、外からの情報を助けとして、だんだんと纏めていく、そんなような方向へ進んでいるのではないかと、そんなふうに思える。